日本歴史地名大系 「備後衆山砦跡」の解説 備後衆山砦跡びんごしやまとりであと 兵庫県:豊岡市火撫村備後衆山砦跡[現在地名]豊岡市日撫円山(まるやま)川の支流六方(ろつぽう)川河口部東岸、北東から延びる丘陵(標高二〇―五〇メートル)突端に立地し、日撫(ひなど)谷を挟んで北側の鶴(つる)城跡に対する。鶴城は永享年中(一四二九―四一)但馬守護山名持豊が築き、被官田結庄氏の居城としたと伝え、当砦は鶴城の支城として位置付けられたものであろう。康正二年(一四五六)六月一九日には備後国の被官山内泰通が九日市(ここのかいち)で備後守護を兼ねる山名持豊から亡父跡の知行安堵を受け(「山名持豊判物」「山内泰通覚書」山内首藤家文書)、明応二年(一四九三)五月一六日には山内通久が篠岡(しのか)庄内篠岡長門守跡などを山名俊豊から恩給されている(「山名俊豊判物」同文書)など、備後衆山砦は山内氏が守備したものと推定することができる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by