室町時代の武将。時煕(ときひろ)(常煕(じようき))の子。法名宗全。将軍足利義持の偏諱(へんき)を与えられる。長兄満時は侍所頭人(とうにん)も務めたが若くして没し,次兄持煕も将軍義教に疎まれたため,嫡子となり,1433年(永享5)但馬,備後,安芸,伊賀の守護職を譲られ,37年持煕を討って惣領権を確立する。40年には,1402年(応永9)に寺納年貢1000石で守護請した高野山領備後大田荘の年々の未進累積額が2万0600石余に達したことを理由に,代官犬橋氏を改替するよう高野山側から訴えられている。嘉吉の乱では,赤松満祐が将軍義教を弑逆(しいぎやく)して播磨に帰国すると,討伐軍の主力となって但馬口から攻め込み,城(木)山城を攻略して滅亡させる。乱後に播磨守護職を与えられ,備前,美作も一族の教之,教清が得た。43年(嘉吉3)には嘉吉の乱で赤松邸で将軍義教とともに横死した前石見守護山名煕貴(教清の養子)の娘を猶子として大内持世の養嗣子教弘に嫁せしめ,大内氏との提携を深め,幕閣における地位と権勢をいっそう高めた。50年(宝徳2)家督を教豊に譲るが,宗全と号し,なお権勢を保持した。こうしたなかで細川氏との対立が進行し,各守護大名家内部の抗争に将軍義政の後継者と定められた義視(よしみ)を庇護する細川勝元と,義政夫人日野富子から義尚(よしひさ)を託された宗全の抗争が複雑に絡み合って,応仁・文明の乱が始まる。細川氏と敵対関係にあり,山名氏とは姻戚関係にあった大内氏は大軍を上洛させて宗全を援助した。次子是豊が東軍細川氏方に属していたため,分国備後などでは戦乱が続き動揺したが,山内氏らの活躍によってしだいに安定した。1445年(文安2)南禅寺に真乗院,またのち同院内に遠碧軒を建立して外護した。西陣の邸内に没した宗全は,大蔭西堂によって荼毘(だび)に付され,遠碧軒に埋葬された。諡号(しごう)は遠碧院殿最高崇峰。
執筆者:岸田 裕之
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(今谷明)
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室町中期の武将。守護大名。右衛門佐(うえもんのすけ)、弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)。法号の宗全(そうぜん)の名で知られる。時煕(ときひろ)の子。1433年(永享5)父の隠退により家督を継ぎ、但馬(たじま)、備後(びんご)、安芸(あき)、伊賀の守護を兼ね、一時侍所別当(さむらいどころべっとう)となる。41年(嘉吉1)将軍義教(よしのり)を殺した赤松満祐(みつすけ)を播磨城(木)山(はりまきのやま)城(兵庫県たつの市)に攻め滅ぼし、功により播磨守護を兼ね、一族教之(のりゆき)は備前(びぜん)、教清(のりきよ)は美作(みまさか)の各守護となる。これにより山名氏は赤松氏の分国を全部あわせて、明徳(めいとく)の乱以前の勢力を回復した。50年(宝徳2)家督を子教豊(のりとよ)に譲り、剃髪(ていはつ)して宗峰(そうほう)、ついで宗全と号した。女(むすめ)を細川勝元(ほそかわかつもと)の妻とし、勝元と組んで畠山(はたけやま)氏の内紛に介入したが、勝元が赤松氏再興を助けたのを怒って対立する。勝元が伊勢貞親(いせさだちか)と組んで畠山政長(まさなが)を支持すると宗全は同義就(よしなり)を助け、斯波(しば)家の内紛にも勝元らが斯波義敏(よしとし)を支持したのに抗して同義廉(よしかど)を助けた。さらに将軍家の継嗣(けいし)問題についても、日野富子(とみこ)の産んだ足利義尚(よしひさ)を助けて、将軍義政の弟義視(よしみ)を支持する勝元らに対抗した。その結果ついに67年(応仁1)山名・細川両将とも与党を京都に集めて戦端を開き、応仁(おうにん)の乱となった。宗全を主将とする西軍には大内政弘(おおうちまさひろ)さらに足利義視も加わったが、宗全の子の山城(やましろ)守護是豊(これとよ)は東軍に参加しており、山名一族も内紛を露呈した。この大乱のさなかに宗全は文明(ぶんめい)5年3月19日西陣の邸内で病没した。平生犬追物(いぬおうもの)を得意とし、勇猛な武将で、赤入道と綽名(あだな)された。
[小川 信]
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1404~73.3.18
室町時代の武将。但馬・備後などを領有する有力守護大名。入道して宗全。応仁・文明の乱の西軍の主将。1441年(嘉吉元)嘉吉の乱では赤松氏討伐の主力となり,乱後播磨など赤松氏旧領を獲得。このため山名氏は最有力の守護大名細川氏に匹敵する勢力となった。以後赤松氏の再興を警戒したが,58年(長禄2)細川勝元は同氏を再興させて,持豊に敵対する姿勢を示した。両者の対立に斯波氏・畠山氏などの内紛がからみ,持豊・勝元をそれぞれの主将とする二大勢力が成立,67年(応仁元)応仁・文明の乱が始まった。73年(文明5)大乱の終結をみることなく京都の陣中で死没。
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…室町時代末期にあたる1467‐77年(応仁1‐文明9)に京都を中心に全国的規模で展開された内乱。この乱では,東軍(細川勝元方)と西軍(山名持豊(宗全)方)に分かれて,全国各地ではげしい合戦が展開され,中央の状況だけではなく各地の政治的状況が反映していた。
【原因】
[家督争い]
乱の原因は複雑な要素からなっていたが,その中でも表面だった要因の一つに,有力守護家内部における家督争いと,有力守護大名間の対立があげられる。…
…円山(まるやま)川上流に位置し,周囲は山に囲まれているが,山陰道と生野街道の分岐点として早くから開け,城ノ山古墳や池田古墳(前方後円墳)などがある。15世紀半ばには山名持豊(宗全)が,南部の竹田にある古城山(354m)に竹田城(虎臥城)を築いた。竹田城は1577年豊臣秀吉に攻められて落城したが,中世の代表的な山城といわれ,遺構は国の史跡に指定されている。…
※「山名持豊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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