入間郡(読み)いるまぐん

日本歴史地名大系 「入間郡」の解説

入間郡
いるまぐん

面積:一五六・一九平方キロ
大井おおい町・三芳みよし町・毛呂山もろやま町・越生おごせ町・名栗なぐり

近世の郡域は北を比企郡、東を足立郡、南を新座にいくら郡・多摩郡、西を高麗こま郡に囲まれた地域と、北と東を比企郡、南を高麗郡、西を秩父郡に囲まれた地域の二つからなり、非常に珍しい郡域のあり方を示している。これは霊亀二年(七一六)当郡の南西部を割いて高麗郡が建郡されたためで、天平宝字二年(七五八)に建郡された新羅しらぎ(のち新座郡と改称)も当郡を割いて建郡されたとみる説もある。また古代の北の郡界は越辺おつぺ川と同川を合せた後の入間川であったとみられるが、中世には現東松山市正代しようだい入西につさい(入間郡西部)に属するなど(承元四年三月二九日「小代行平譲状」小代文書)、越辺川の流路は一部変化したと思われる。近世の郡域は現在の入間市・所沢市・狭山市川越市上福岡市・富士見市・坂戸市鶴ヶ島市と現入間郡五町村にまたがる。

〔古代〕

「和名抄」東急本は郡名を「伊留末」と訓じ、諸本に異訓・異表記はない。入間郡の所属郷として同書高山寺本は麻羽あさは大家おおやけ高階たかしな安刀あと山田やまた広瀬ひろせの六郷を載せ、東急本では郡家ぐうけ余戸あまるべの二郷が加えられている。「万葉集」巻一四に詠まれる「伊利麻治能於保屋我波良」は大家郷一帯に比定されている。天平宝字八年以前から授刀(宮中の護衛にあたる武官)の一人として上京していた入間郡の物部広成は、孝謙上皇方にあって藤原仲麻呂の叛兵を愛発あらち(現福井県敦賀市)で撃破し、神護景雲二年(七六八)七月一一日に「入間宿禰」姓を与えられた。このとき広成は正六位上勲五等であった(続日本紀)。その後も広成は征東副使・常陸介・造東大寺次官として活躍している。同三年奈良西大寺に商布一千五〇〇段・稲七万四千束・墾田四〇町・林六〇町を献進した功により、宝亀八年(七七七)六月五日、入間郡の大伴部直赤男が外従五位下を追贈されている(同書)。神護景雲三年九月入間郡の正倉四宇が焼失したが、国司から出雲伊波比いずもいわい神が幣帛の途絶えたことを怒り雷神を率いて火災を起こしたとの卜占が報告され、宝亀三年一二月一九日同神に奉幣するよう命じられている(「太政官符」天理図書館所蔵文書)。しかしこの出火は全国各地で発生している正倉の焼失事件同様、官物横領による郡司の不正蓄財が背後にあったと考えられている。なおこの火災の責任を問われて、同四年に入間郡司らが解任されている(東京国立博物館蔵九条家本「延喜式」裏文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報