外秩父山地の入間郡
呼称は主として入間郡域を流れることから生じたとみられる。呼称がみえる早い例は「吾妻鏡」元暦元年(一一八四)四月二六日条で、源義仲の嫡男志水(清水)冠者義高が源頼朝の放った追手により「入間河原」で討たれたとある。入間河原は鎌倉街道上道に近い現狭山市域と考えられる。「発心集」の「武州入間河沈水の事」は「武蔵国入間河のほとりに、大きなる堤を築き、水を防きて、其の内に田畠を作りつつ、在家多くむらがり居たる処ありけり、官首と云ふ男なん、そこに宗とあるものにて年比住みける」と書き始められ、大雨が続き水が「いかめしう出でたりける」にもかかわらず、「未だ年比此の堤の切れたる事なければ」と軽視したため、氾濫に遭い妻子を捨てて逃げた話が語られている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
埼玉県の南西部を流れる荒川最大の支流。全長67.3km,秩父盆地と境する妻坂峠(標高約800m)に源を発する。飯能市の旧名栗村を経て同市の岩根橋までの上流部は,名栗川と呼ばれていたが,最近は入間川の名で統一されている。上流部は秩父山地の谷間で,杉,ヒノキを中心とする西川材の産地である。それらの植林と伐採,いかだによる飯能への流送は,名栗や原市場などの集落が畑作のかたわら営んできた。飯能市街で山地を離れ,成木川を合わせてからは,茶畑,桑畑を交えた広い台地間に連なる沖積平野上を,ほぼ直線状に川越市に向かう。東岸に連なる武蔵野台地のへりには,1960年ごろから工場や住宅地が急増した。沖積平野には水田が多く,東武東上線付近には条里の遺構がある。川越市北西端で小畔(こあぜ)川,越辺(おつぺ)川を合わせ,市街地の北方を大きく迂回した後,古谷本郷の上江橋付近で荒川に合流している。かつて荒川の本流が現在の元荒川の流路であった江戸初期には,入間川はそのまま本流となって東京湾へ注ぎ,重要な舟運路であった。
執筆者:籠瀬 良明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
埼玉県南西部を流れる荒川最大の支流。秩父(ちちぶ)郡横瀬(よこぜ)町と飯能(はんのう)市との境の妻坂(つまさか)峠付近に源をもち、飯能市を南東流して入間市、狭山(さやま)市に至り、ここから北東流し、川越(かわごえ)市北方で越辺(おっぺ)川と合流、さらに東流して川越市北東の上江(かみごう)橋付近で荒川に合する。全長65キロメートル。飯能市の岩根橋より上流を名栗川、下流を入間川という。1629年(寛永6)の荒川の瀬替(せが)え以前は単独の河川として、現在の東京都墨田(すみだ)区隅田付近で、昔の利根(とね)川に合流していた。
[中山正民]
狂言の曲名。大名狂言。東国の大名(シテ)が太郎冠者(かじゃ)を連れて都から本国へ帰る途中、武蔵野(むさしの)で大河に行き当たる。通りがかりの男に尋ねると、川の名は入間川、渡り瀬はもっと上(かみ)だと教えられる。大名は、男がこの地に伝わる入間様(よう)の逆言葉(さかことば)を使ったものとひとり合点してそこを渡り始め、深みにはまってずぶぬれになる。怒った大名は男を討とうと刀に手をかけるが、機転をきかせた男が逆言葉を使って応答するので、理屈に詰まって命を助ける。大名はさらに逆言葉のやりとりをしておもしろがり、持ち物から着物まで与えてしまう。最後に、逆言葉の理屈を無理にこじつけて男をだまし、品物を取り返して逃げる。大名が逆言葉の応酬に興ずる箇所が見どころ。関東を舞台にした珍しい狂言である。
[林 和利]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
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