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藤原仲麻呂 ふじわらのなかまろ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原仲麻呂
ふじわらのなかまろ

[生]慶雲3(706)
[没]天平宝字8(764).9.18. 近江
奈良時代の廷臣。藤原南家の祖武智麻呂の次男。一名,恵美押勝。天平6 (734) 年従五位下,同 12年の藤原広嗣の乱後,政界へ進出,同 15年従四位上,参議。以後光明皇后皇太子阿倍内親王の信任を得て,大仏の造立や平城還都を推進し,天平勝宝1 (749) 年には大納言

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐なかまろ〔ふぢはら‐〕【藤原仲麻呂】

[706~764]奈良時代の公卿。武智麻呂(むちまろ)の二男。橘奈良麻呂の乱を未然に抑えて淳仁天皇を擁立し、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を受け、太師(太政大臣)となって権勢を振るった。のち、孝謙上皇道鏡を寵愛したため、これを除こうとして失敗し処刑された。

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百科事典マイペディアの解説

藤原仲麻呂【ふじわらのなかまろ】

奈良後期の高官。武智麻呂(むちまろ)の子。光明(こうみょう)皇后の信任を得,従妹の孝謙天皇即位後,紫微中台(しびちゅうだい)(皇后宮職)の長官となり政権を握った。
→関連項目石上宅嗣宇佐八幡宮神託事件家伝吉備真備玄【ぼう】孝謙天皇皇后宮職坂上田村麻呂淳仁天皇太政大臣橘諸兄保良宮養老律令

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原仲麻呂 ふじわらの-なかまろ

706-764 奈良時代の公卿(くぎょう)。
慶雲(きょううん)3年生まれ。南家藤原武智麻呂(むちまろ)の次男。母は阿倍御主人(あべの-みうし)の孫娘。光明皇后に信任される。橘奈良麻呂(たちばなの-ならまろ)ら対抗勢力を排除し,天平宝字(てんぴょうほうじ)2年淳仁(じゅんにん)天皇を擁立。恵美押勝(えみの-おしかつ)の名をあたえられ,4年大師(太政大臣),6年正一位となる。道鏡の台頭で孝謙上皇と対立,挙兵して天平宝字8年9月18日敗死。59歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原仲麻呂

没年:天平宝字8.9.18(764.10.17)
生年:慶雲3(706)
奈良時代の政治家。武智麻呂の第2子。母は安倍朝臣氏の娘。生来聡敏で,また読書家でもあり,算道にも精通していたという。神亀2(725)年内舎人として出身し,天平6(734)年正六位下から従五位下に進んだ。同9年,天然痘の猛威により父や叔父たちが相次いで死亡するということもあり,仲麻呂は天平勝宝2(750)年従二位に昇進するまで異例の早さで出世をとげる。この間,民部卿,式部卿,参議兼東山道鎮撫使などを歴任し,天平勝宝1(749)年孝謙天皇の即位とともに大納言となった。さらには中衛大将も兼ね,枢機のまつりごとをひとりで握るので,他の貴族たちは皆その勢を妬んだと『続日本紀』は記している。光明皇后(仲麻呂の叔母に当たる)の皇后宮職を発展改組して設けた紫微中台の長官(紫微令)にもなって,太政官組織に拠る左大臣橘諸兄らの勢力と対抗した。また東大寺の造営に物心両面で尽力したことも特記すべきで,天平勝宝4(752)年大仏開眼の盛儀が行われた日,孝謙天皇は左京四条二坊の仲麻呂の私邸田村第に帰途立ち寄り,以後しばらくここを御在所としたほどである。 天平勝宝8年5月,聖武太上天皇が没すると,翌年には皇太子道祖王を廃して,田村第に住まわせていた大炊王を擁立して皇太子とした。同時に紫微令の権限を大臣相当の地位に引き上げて名称も紫微内相に改め,これによって軍事大権を握った。この少し前に諸兄が死没しており,仲麻呂の専横を憎む諸兄の長子奈良麻呂や大伴,佐伯,多治比らの旧氏族たちは,反乱を計画したが未然に鎮圧され,いよいよ仲麻呂の独裁政治は確立した。翌天平宝字2(758)年8月,大炊王は即位して淳仁天皇となり,仲麻呂の傀儡政権が誕生した。仲麻呂は太保(右大臣)となり,名前も恵美押勝と改め,功封3000戸,功田100町のほか,鋳銭や出挙の権利も許され,恵美家印を太政官印にかえて用いることを認められた。同4年には従一位太師(太政大臣)という極位極官に昇った。しかしこの時期を頂点にしてその政治生命は急速に凋落の運命をたどることになる。 光明皇太后が没すると淳仁天皇・仲麻呂と孝謙上皇の間は疎遠となり,道鏡の処遇をめぐって両者の不和は表面化した。やがてこれは皇権の分裂に発展することになった。経済情勢の悪化も手伝い仲麻呂政権は非勢に追いこまれていく。その事態を挽回すべく,同8年9月,都督四畿内三関近江丹波播磨等兵事使という非常の権力手段を使って手兵を集めて反乱を企てようとしたが,計画は事前に発覚して失敗に終わった。都から追われた仲麻呂は近江(滋賀県),越前(福井県)を転々とし,最後に近江湖西の勝野の鬼江(滋賀県高島町)で捕らえられ,一族党類と共に斬首された(藤原仲麻呂の乱)。仲麻呂政治の特徴は,官号の唐風化や歴代天皇の漢風諡号の選進など,唐制の徹底した模倣により律令体制の完成を期そうとしたところにあり,大宝律令にかわって養老律令を施行したのも,同様な意図によるものと思われる。<参考文献>岸俊男『藤原仲麻呂

(狩野久)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのなかまろ【藤原仲麻呂】

706‐764(慶雲3‐天平宝字8)
奈良時代の政治家。名は仲満とも書く。758年(天平宝字2)に恵美押勝(えみのおしかつ)と改称した。藤原武智麻呂(むちまろ)の第2子。母は安倍朝臣出身の女性で,貞吉もしくは真虎の娘と伝え,豊成は同母兄。聡敏で読書家,また算術に精通した。725年(神亀2)に内舎人(うどねり),ついで大学少允となる。734年(天平6)正六位下より従五位下となり,父武智麻呂ら藤氏四卿の死後750年(天平勝宝2)従二位に昇るまで11年間に9階という異例の急進をとげ,さらに760年に従一位,762年には正一位の極位に至っている。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのなかまろ【藤原仲麻呂】

706~764) 奈良後期の廷臣。武智麻呂むちまろの子。叔母光明皇太后の信を得て、左大臣橘諸兄と対立。757年橘奈良麻呂の変を制圧し、58年恵美押勝えみのおしかつの名を受け、のち太師(太政大臣)となって専権をふるった。孝謙上皇が道鏡を寵愛ちようあいしたので、その排除を策して失敗、近江で妻子らとともに殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原仲麻呂
ふじわらのなかまろ
(706―764)

奈良時代の政治家。不比等(ふひと)の孫、武智麻呂(むちまろ)の次男。聡明(そうめい)にして学才があり、また算道に精通した。内舎人(うどねり)、大学少允(しょうじょう)を経て、734年(天平6)ようやく従(じゅ)五位下となったが、父の急死を契機に急速に官位が昇進。民部卿(きょう)、参議、兼近江守(おうみのかみ)、式部卿などを経て、749年(天平勝宝1)聖武(しょうむ)天皇の孝謙(こうけん)天皇(阿倍(あべ)内親王)への譲位とともに大納言(だいなごん)。また光明(こうみょう)皇后の皇后宮職(しき)を拡充した紫微中台(しびちゅうだい)の長官となり、しだいに権勢を強化した。ついで聖武上皇が没し、その遺詔により立太子した道祖(ふなど)王が廃されるや、かねて亡男真従(まつぐ)の妻粟田諸姉(あわたのもろえ)を娶(めあわ)せて自邸田村第(だい)に住まわせていた大炊(おおい)王(父は舎人親王)を皇太子にたて、外戚(がいせき)となる。
 これらに反対して橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が反乱を起こそうとするが、未然に鎮圧。その功として恵美押勝(えみのおしかつ)と称し、功封3000戸、功田100町、鋳銭・挙稲の権限および恵美家印を許され、以後は独裁専制の道を歩み、正(しょう)一位太師(たいし)(太政(だいじょう)大臣)に至る。しかし光明皇太后が死し、保良宮(ほらのみや)滞在中に淳仁(じゅんにん)=仲麻呂と孝謙=道鏡の対立が激化、やがて764年(天平宝字8)に藤原仲麻呂の乱を起こすが、ついに湖西に敗死する。中国模倣が施策の特徴であるが、養老律令(ようろうりつりょう)の施行、開基勝宝・太平元宝・万年通宝を新鋳、天皇漢風諡号(しごう)の撰進(せんしん)、武智麻呂伝の編纂(へんさん)などを行う。[岸 俊男]
『岸俊男著『藤原仲麻呂』(1969・吉川弘文館)』

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世界大百科事典内の藤原仲麻呂の言及

【恵美押勝の乱】より

…奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。…

【近江国】より

…742年には紫香楽(しがらき)宮(甲賀郡信楽町)が造営され,その近傍の甲賀寺で盧舎那仏造立も起工された。また藤原仲麻呂は保良宮(ほらのみや)(大津市)の造営を主唱し,孝謙太上天皇と淳仁天皇を手中にせんとしたが,道鏡の出現をきっかけに両者の関係は決裂し,ともに平城京に帰り,孝謙太上天皇が皇権の主要部分を掌握した。これも一因となって権力の動揺した仲麻呂は,体制立直しの拠点を近江国に求めたが,近江を主戦場とする戦いの末打倒された。…

【家伝】より

…次子〈史(不比等)伝〉ははやく失われたとある。上巻の撰者を大師と記すが,大師は太政大臣の唐名で,武智麻呂の次子藤原仲麻呂(恵美押勝)がそれに任ぜられた。彼が曾祖父顕彰のため760‐761年(天平宝字4‐5)ころに編纂したと推定される。…

【紫微中台】より

…もと光明皇后の意志の伝達,日常生活等を営むために729年(天平1)設置された皇后宮職を改称したものである。孝謙天皇の即位にともなって光明皇后が皇后から皇太后へかわったことに際してとられた措置であるが,紫微中台の長官(紫微令,後に紫微内相)に藤原仲麻呂が任命され,光明皇后との密接なつながりを官職上ももったことが注目される。当時,仲麻呂は大納言であったため,公的政治の場である太政官にも影響力をもち,同時に光明皇太后とむすんで天皇家と直接連絡をとるという立場をもつこととなった。…

【淳仁天皇】より

…諱(いみな)は大炊(おおい)王。立太子以前に藤原仲麻呂の長子真従(まより)の未亡人粟田諸姉(あわたのもろあね)を妻とし,仲麻呂の邸宅である田村第に住んでいた。この関係から,仲麻呂は彼の立太子と即位を望んだ。…

【常平倉】より

…明・清まで存続したが不正流用されて本来の意味はうすれ,農民救済は義倉や社倉に移った。【柳田 節子】
[日本]
 日本では奈良時代の759年(天平宝字3)に当時政権を握っていた藤原仲麻呂の建議により設置された。仲麻呂は唐の制度を多く採用したが,庶民の苦しみを軽減するための施策にも意欲的であった。…

【続日本紀】より

…編纂過程は複雑であるが,《類聚国史》に収められている延暦13年8月13日付の藤原継縄の上表文と,《日本後紀》にみえる延暦16年2月13日付の菅野真道の上表文によって,概要が知られる。まず(1)文武~孝謙紀(文武1年1月~天平宝字2年7月)が淳仁朝に30巻として撰修されたが,その発議は藤原仲麻呂によるらしい。光仁朝に石川名足が淡海三船,当麻永嗣とともにこれに修正を加えて奏上したが,29巻のみで,問題の多い巻三十は亡失と称して削除された。…

【橘奈良麻呂の変】より

…奈良時代の中ごろ,橘奈良麻呂を中心とするグループによって計画された藤原仲麻呂打倒未遂事件。745年(天平17)ごろから奈良麻呂は藤原氏の勢力に反発し,同志を募っていた。…

【田村第】より

…奈良後期の藤原仲麻呂の私邸。752年(天平勝宝4)4月東大寺大仏開眼の儀の帰途,孝謙天皇がここを御在所としたのが初見(《続日本紀》)。…

【中衛府】より

…聖武天皇と藤原氏とが自己の政治的地位を保持する目的で設置した可能性がつよく,また農民層である衛士(えじ)を武力の主体とした令制五衛府の弱体化に対処する意味もあったと考えられる。8世紀中葉には藤原仲麻呂が中衛大将となり,中衛府は仲麻呂の専制維持のための武力となった。しかし764年(天平宝字8)の仲麻呂失脚後は,同じく舎人を武力の主体とする近衛府(このえふ),外衛府(がいえふ)が設置され,中衛府の特権的地位は失われた。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【平準署】より

…常平倉は豊年や秋期の米価の安い時期に購入して蓄え,米価が高騰すると市価より安く放出して米価を安定させ,得られた利潤で京より帰る運脚夫の飢えを救うために設けられた。平準署は常平倉とともに759年(天平宝字3),当時政権を握っていた藤原仲麻呂の建議により設置された。仲麻呂は庶民の苦しみを軽減するための施策を唐の制度に学びながらも積極的に実施した。…

【保良宮】より

…所在地は不明だが,現在の滋賀県大津市国分,北大路,粟津付近と推定される。時の権力者藤原仲麻呂が,唐の5京や天武天皇以来の複都主義にもとづき平城京の陪都として造営を企図したもので,政敵橘諸兄の主唱した恭仁(くに)京に対抗し,藤原氏と関係の深い近江国に新宮を造営して孝謙太上天皇と淳仁天皇を手中にせんとしたと考えられる。759年(天平宝字3)11月に造営担当者が任命されてこの計画は始動し,761年10月にはこれを北京(ほくきよう)とし,近接の滋賀・栗太両郡を畿県としている。…

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