奈良時代の政治家。名は仲満とも書く。758年(天平宝字2)に恵美押勝(えみのおしかつ)と改称した。藤原武智麻呂(むちまろ)の第2子。母は安倍朝臣出身の女性で,貞吉もしくは真虎の娘と伝え,豊成は同母兄。聡敏で読書家,また算術に精通した。725年(神亀2)に内舎人(うどねり),ついで大学少允となる。734年(天平6)正六位下より従五位下となり,父武智麻呂ら藤氏四卿の死後750年(天平勝宝2)従二位に昇るまで11年間に9階という異例の急進をとげ,さらに760年に従一位,762年には正一位の極位に至っている。
その間官職も741年民部卿,743年参議兼左京大夫,745年兼近江守,746年式部卿兼東山道鎮撫使などを歴任した。749年聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると大納言となり,さらに皇権を掌握した叔母の光明皇太后のために新しく設置された紫微中台の長官紫微令をも兼任し,太政官に拠る左大臣橘諸兄らに対抗して,政治の中枢に進出した。756年聖武上皇が没すると翌757年皇太子道祖(ふなど)王を廃し,大炊王を擁立した。大炊王は当時仲麻呂の私宅田村第に住み,仲麻呂の亡男真従(まより)の婦の粟田諸姉をめとっていて,仲麻呂とはミウチ的な関係にあった。同年紫微内相(ないしよう)となって軍事権も手中にした仲麻呂は,諸兄の長子橘奈良麻呂や,大伴,佐伯,多治比ら反仲麻呂勢力の反乱を未然に鎮圧し(橘奈良麻呂の変),独裁政権を確立した。ついで758年大炊王が即位し淳仁天皇となると太保(右大臣)となり,恵美押勝の姓名,功封3000戸,功田100町を賜り,鋳銭,出挙(すいこ)の自由な権限を手中にし,また,恵美家印を太政官印にかえて用いることも許され,760年にはついに太師(太政大臣)となった。
しかし同年光明皇太后が没すると,しだいに政権にかげりがあらわれはじめた。762年近江の保良宮滞在中に孝謙上皇と淳仁天皇が道鏡の問題をめぐって不和となり,平城京に帰った後は皇権の分裂にまで発展したが,その背後には仲麻呂・淳仁派と道鏡・孝謙派の対立抗争の激化があった。加えて銭貨改鋳はインフレを招き,社会不安が高まったので,764年仲麻呂はこの退勢を一挙に挽回するため反乱を企て,都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となってひそかに手兵を集めようとしたが,計画は事前に発覚した。緒戦に敗れた仲麻呂は近江,ついで越前への逃亡をはかったが,いずれも失敗し,近江湖西の勝野鬼江で捕らえられ,一族与党とともに湖浜で斬首された。
仲麻呂の施策には,雑徭日数の半減や課役年齢の短縮,問民苦使(もみくし)の派遣など人心の安定をはかるものがみられるが,多くは唐制の模倣であり,このことは乾政官(太政官),坤宮官(紫微中台)などの官号の唐風化や,歴代天皇の漢風諡号(しごう)の撰進にもみられ,またそこには《孝経》を各家に所持させ,《維城典訓》を官人の必読書とする政策と同じように,仲麻呂の儒教好みがあらわれている。さらに757年養老律令の施行は,祖父不比等の顕彰を目的とするが,藤原氏の《家伝》を編纂し,みずからが〈鎌足伝〉(〈大織冠伝〉)を書いたのも同じ意図に出るものであった。そのほか《日本書紀》に続く正史の編修を発議し,また《氏族志》の編纂も手がけたが,それらはのちの《続日本紀》や《新撰姓氏録》の先駆となった。
→恵美押勝の乱
執筆者:岸 俊男
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(狩野久)
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奈良時代の政治家。不比等(ふひと)の孫、武智麻呂(むちまろ)の次男。聡明(そうめい)にして学才があり、また算道に精通した。内舎人(うどねり)、大学少允(しょうじょう)を経て、734年(天平6)ようやく従(じゅ)五位下となったが、父の急死を契機に急速に官位が昇進。民部卿(きょう)、参議、兼近江守(おうみのかみ)、式部卿などを経て、749年(天平勝宝1)聖武(しょうむ)天皇の孝謙(こうけん)天皇(阿倍(あべ)内親王)への譲位とともに大納言(だいなごん)。また光明(こうみょう)皇后の皇后宮職(しき)を拡充した紫微中台(しびちゅうだい)の長官となり、しだいに権勢を強化した。ついで聖武上皇が没し、その遺詔により立太子した道祖(ふなど)王が廃されるや、かねて亡男真従(まつぐ)の妻粟田諸姉(あわたのもろえ)を娶(めあわ)せて自邸田村第(だい)に住まわせていた大炊(おおい)王(父は舎人親王)を皇太子にたて、外戚(がいせき)となる。
これらに反対して橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が反乱を起こそうとするが、未然に鎮圧。その功として恵美押勝(えみのおしかつ)と称し、功封3000戸、功田100町、鋳銭・挙稲の権限および恵美家印を許され、以後は独裁専制の道を歩み、正(しょう)一位太師(たいし)(太政(だいじょう)大臣)に至る。しかし光明皇太后が死し、保良宮(ほらのみや)滞在中に淳仁(じゅんにん)=仲麻呂と孝謙=道鏡の対立が激化、やがて764年(天平宝字8)に藤原仲麻呂の乱を起こすが、ついに湖西に敗死する。中国模倣が施策の特徴であるが、養老律令(ようろうりつりょう)の施行、開基勝宝・太平元宝・万年通宝を新鋳、天皇漢風諡号(しごう)の撰進(せんしん)、武智麻呂伝の編纂(へんさん)などを行う。
[岸 俊男]
『岸俊男著『藤原仲麻呂』(1969・吉川弘文館)』
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706~764.9.18
奈良中期の公卿。武智麻呂(むちまろ)の次男。母は安倍貞吉(一説に真虎(まとら))の女。南家。734年(天平6)従五位下に叙され,民部卿をへて743年参議。叔母光明皇后の信任と大仏造立の推進で政治的地位を上昇させ,近江守・式部卿を歴任。749年(天平勝宝元)大納言,紫微中台(しびちゅうだい)の長官紫微令を兼ねて実権をにぎる。757年(天平宝字元)大臣待遇で軍事権をもつ紫微内相に転じ,橘奈良麻呂の謀反を未然に防いで反対派を中央から一掃し,名実ともに太政官の首班となる。翌年,仲麻呂に擁立されて即位した淳仁天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜る。正一位大師(太政大臣)に至ったが,764年(天平宝字8)孝謙太上天皇の寵愛する僧道鏡の排除を謀り,計画がもれて機先を制され,近江国勝野鬼江で斬死した。
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…奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。…
…742年には紫香楽(しがらき)宮(甲賀郡信楽町)が造営され,その近傍の甲賀寺で盧舎那仏造立も起工された。また藤原仲麻呂は保良宮(ほらのみや)(大津市)の造営を主唱し,孝謙太上天皇と淳仁天皇を手中にせんとしたが,道鏡の出現をきっかけに両者の関係は決裂し,ともに平城京に帰り,孝謙太上天皇が皇権の主要部分を掌握した。これも一因となって権力の動揺した仲麻呂は,体制立直しの拠点を近江国に求めたが,近江を主戦場とする戦いの末打倒された。…
…次子〈史(不比等)伝〉ははやく失われたとある。上巻の撰者を大師と記すが,大師は太政大臣の唐名で,武智麻呂の次子藤原仲麻呂(恵美押勝)がそれに任ぜられた。彼が曾祖父顕彰のため760‐761年(天平宝字4‐5)ころに編纂したと推定される。…
…もと光明皇后の意志の伝達,日常生活等を営むために729年(天平1)設置された皇后宮職を改称したものである。孝謙天皇の即位にともなって光明皇后が皇后から皇太后へかわったことに際してとられた措置であるが,紫微中台の長官(紫微令,後に紫微内相)に藤原仲麻呂が任命され,光明皇后との密接なつながりを官職上ももったことが注目される。当時,仲麻呂は大納言であったため,公的政治の場である太政官にも影響力をもち,同時に光明皇太后とむすんで天皇家と直接連絡をとるという立場をもつこととなった。…
…諱(いみな)は大炊(おおい)王。立太子以前に藤原仲麻呂の長子真従(まより)の未亡人粟田諸姉(あわたのもろあね)を妻とし,仲麻呂の邸宅である田村第に住んでいた。この関係から,仲麻呂は彼の立太子と即位を望んだ。…
…明・清まで存続したが不正流用されて本来の意味はうすれ,農民救済は義倉や社倉に移った。【柳田 節子】
[日本]
日本では奈良時代の759年(天平宝字3)に当時政権を握っていた藤原仲麻呂の建議により設置された。仲麻呂は唐の制度を多く採用したが,庶民の苦しみを軽減するための施策にも意欲的であった。…
…編纂過程は複雑であるが,《類聚国史》に収められている延暦13年8月13日付の藤原継縄の上表文と,《日本後紀》にみえる延暦16年2月13日付の菅野真道の上表文によって,概要が知られる。まず(1)文武~孝謙紀(文武1年1月~天平宝字2年7月)が淳仁朝に30巻として撰修されたが,その発議は藤原仲麻呂によるらしい。光仁朝に石川名足が淡海三船,当麻永嗣とともにこれに修正を加えて奏上したが,29巻のみで,問題の多い巻三十は亡失と称して削除された。…
…奈良時代の中ごろ,橘奈良麻呂を中心とするグループによって計画された藤原仲麻呂打倒未遂事件。745年(天平17)ごろから奈良麻呂は藤原氏の勢力に反発し,同志を募っていた。…
…奈良後期の藤原仲麻呂の私邸。752年(天平勝宝4)4月東大寺大仏開眼の儀の帰途,孝謙天皇がここを御在所としたのが初見(《続日本紀》)。…
…聖武天皇と藤原氏とが自己の政治的地位を保持する目的で設置した可能性がつよく,また農民層である衛士(えじ)を武力の主体とした令制五衛府の弱体化に対処する意味もあったと考えられる。8世紀中葉には藤原仲麻呂が中衛大将となり,中衛府は仲麻呂の専制維持のための武力となった。しかし764年(天平宝字8)の仲麻呂失脚後は,同じく舎人を武力の主体とする近衛府(このえふ),外衛府(がいえふ)が設置され,中衛府の特権的地位は失われた。…
…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家,二条家,一条家,九条家,鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…
…常平倉は豊年や秋期の米価の安い時期に購入して蓄え,米価が高騰すると市価より安く放出して米価を安定させ,得られた利潤で京より帰る運脚夫の飢えを救うために設けられた。平準署は常平倉とともに759年(天平宝字3),当時政権を握っていた藤原仲麻呂の建議により設置された。仲麻呂は庶民の苦しみを軽減するための施策を唐の制度に学びながらも積極的に実施した。…
…所在地は不明だが,現在の滋賀県大津市国分,北大路,粟津付近と推定される。時の権力者藤原仲麻呂が,唐の5京や天武天皇以来の複都主義にもとづき平城京の陪都として造営を企図したもので,政敵橘諸兄の主唱した恭仁(くに)京に対抗し,藤原氏と関係の深い近江国に新宮を造営して孝謙太上天皇と淳仁天皇を手中にせんとしたと考えられる。759年(天平宝字3)11月に造営担当者が任命されてこの計画は始動し,761年10月にはこれを北京(ほくきよう)とし,近接の滋賀・栗太両郡を畿県としている。…
※「藤原仲麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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