日本歴史地名大系 「高麗郡」の解説
高麗郡
こまぐん
- 埼玉県:武蔵国
- 高麗郡
〔古代〕
「続日本紀」霊亀二年(七一六)五月一六日条に「以駿河・甲斐・相摸・上総・下総・常陸・下野七国高麗人千七百九十九人、遷于武蔵国、始置高麗郡焉」とあり、郡の設置年代が文献で確認できる数少ない例である。東国の高麗人を集住させて新郡を設置したことが知られるが、これらの高麗人は七世紀後半の朝鮮半島情勢の変化により滅亡した高句麗からの亡命者といわれている。天武・持統朝では朝鮮半島からの渡来人を次々と東国各地に移住させていた。これらの渡来人には田地や食料が与えられ(「日本書紀」持統天皇元年条)、また終身にわたり課役が免除されていた(「続日本紀」養老元年一一月八日条)。日本の朝廷を慕い帰化した者には恩を与えるという王化思想の表れであるが、一方で渡来人の知識・技術により東国の開発を期待した政策でもあった。高麗郡建郡以前にも、和銅四年(七一一)に渡来人を集めて上野国に
郡界のあり方から入間郡の南西部を割いて設置されたものと考えられ、「和名抄」には高麗郷と
奈良時代の高麗郡出身者には、長屋王側近の一人として大学助に任ぜられ、従五位下まで上り、「万葉集」や「懐風藻」に作品を残した背奈公行文やその甥の高麗福信がいる。福信は「続日本紀」天平勝宝二年(七五〇)正月二七日条に「従四位上背奈王福信等六人賜高麗朝臣姓」とあり、このとき中衛少将兼紫微(皇太后宮職)少弼(次官)であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報