朝日日本歴史人物事典 「八田皇女」の解説
八田皇女
5世紀前半,仁徳天皇の妃。応神天皇と宮主宅媛(宮主矢河枝比売)との皇女。八田若郎女,矢田皇女ともいう。応神天皇の死後,菟道稚郎子と大雀命(仁徳天皇)が異母兄弟同士で位を譲り合っていたが,稚郎子は自殺して同母妹八田皇女を大雀命の妃とするよう遺言を残した。しかし仁徳天皇は,皇后磐之媛の嫉妬にあい実現できないでいた。仁徳30年,皇后の不在のときに八田皇女を招いて妃としたが,皇后の激しい怒りをかう。『古事記』では,別居を強いられた八田皇女のため,御名代(皇族の私有民)として八田部を設置したという。『日本書紀』は,皇后の死後に,妃の八田皇女を新しく皇后に立てたとしている。子はいなかった。
(明石一紀)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報