石垣島・
琉球諸島の最南端に位置するため、宮古とともに九州の縄文・弥生文化の影響を受けた形跡がなく、シャコガイ製貝斧の出土にみられるように、フィリピンなど東南アジアの文化の影響が大きいと考えられている。そのため先史時代の時期区分には先島編年が用いられ、約四〇〇〇―二五〇〇年前の先島先史時代前期と、二五〇〇―一一〇〇年前の同後期に区分されている。前期では半磨製石斧が盛んに用いられ、下田原式土器とよばれる牛角状把手をもつ厚手の無文土器が登場する。後期になると突然それまでの土器を捨て、無土器の時代となる。調理には石蒸の方法がとられ、貝斧が多く出土するが、前期文化と後期文化の関係については、連続したものか別の文化であるのか結論が出ていない。一二世紀頃から大規模な集落跡やグスク遺跡が高台や丘陵に形成されるようになる。この頃の遺跡からは多数の中国製陶磁器が出土しており、海外貿易が盛んに行われていたことがわかる。
「続日本紀」和銅七年(七一四)一二月五日条に南島の「信覚」が朝貢したことがみえ、信覚をシガキと読んで石垣島とする説がある。成宗八年(一四七七)朝鮮済州島の船が与那国島沖で難破し、与那国島民に救助されたのち、西表島・波照間島・新城島・黒島と島伝いに沖縄島に送られ、本国に送還された(「李朝実録」同一〇年条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時ころ,〈石垣島付近東南東数十粁の処を東北東西南西に走る線〉を震源地とし,マグニチュード7.4の地震が発生した。その結果,まもなく未曾有の大津波が八重山・宮古両列島(現,沖縄県)の島々村々を襲った。津波の被害が甚大で,〈明和の大津波〉とも呼ばれる。…
…一方中国も,武力行使も辞さないという態度をちらつかせながら処分の撤回を明治政府に求めたので,政府はやむなく外交折衝を通じて中国との間に妥協点を見いだすことになった。琉球を二分し,宮古,八重山の両諸島を中国に与えるかわりに,その代償として中国内で欧米なみの通商権を得ようとする案(分島・増約案)が翌80年に提示され,両国間でひとまず合意に達した。だが中国側が自国に不利とみて最終的に批准を回避したため流産となった(分島問題)。…
※「八重山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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