兵庫上庄(読み)ひようごかみのしよう

日本歴史地名大系 「兵庫上庄」の解説

兵庫上庄
ひようごかみのしよう

六甲(ろつこう)山地西部南麓の沖積地を中心に成立した兵庫庄の一部。単に上庄ともいう。兵庫庄は皇室領庄園で兵庫三箇(さんか)(三ヵ)庄ともいい、平安末期には上・中・下三庄に分れていたと推察され、領家は平頼盛であった(→兵庫庄)。当庄は兵庫庄の最も東に位置し、葺屋(ふきや)庄(現中央区)と境を接していたとみられる。「康富記」文安五年(一四四八)八月一六日条に、赤松治部少輔(教弘か)知行分の福原(ふくはら)庄や兵庫上庄以下三ヵ庄を召上げ、将軍御料所として管領細川勝元に預け置いたとあり、また葺屋庄との間で境相論があり、同年七月初旬に互いに放火に及んだという。翌六年将軍足利義政は兵庫上庄内徳珍名を福原庄内散在田地とともに山城石清水(いわしみず)八幡宮に寄進している(同年四月二九日「足利義政下地寄進状」石清水文書)。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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