戦時・平時に故意に居宅・財物を焼くこと。戦術としての放火は焼打とも呼ばれた。
山背大兄王(やましろのおおえのおう)と蘇我入鹿が軍事的衝突をしたとき,斑鳩宮(いかるがのみや)が焼かれ,蝦夷征討過程で村落が焼き払われ,平将門の乱のとき伴類らの居宅が焼掃されたごとく,軍事作戦の一環として放火が行われたが,政治的緊張がたかまった状況下で,不満をもつ者が放火にはしることが珍しくなかった。平安京内で宮殿や貴族の邸宅がしばしば焼落しているが,不満をもつ者の放火による場合が多く,任国の百姓が受領(ずりよう)の屋敷に放火することもあった。政治的陰謀に起因する放火もあり,866年(貞観8)の応天門の炎上は,大納言伴善男(とものよしお)が左大臣源信(みなもとのまこと)を失脚させる目的で,放火したのであった。8世紀後半から9世紀にかけて神火(じんか)と称される国郡正倉の火損事件がしきりに起こっているが,それは虚納その他の不正を隠蔽するため,国郡司らが放火した人火によるものが大半であった。律では雑律に放火を禁止する規定があり,故焼官府廨舎条では,官府や私家舎宅ないし財物を故焼すると徒(ず)3年に処すとしている。
執筆者:森田 悌
中世においては,多様な形態の放火が広範囲に存在した。夜討(ようち)には必ず放火がともなうし,通常の合戦においても侵入軍は,相手方の集落・城下などを焼き払うのが常であった。また強盗が犯行後その家に火を放つ例もしばしばみられる。そのほか,討死を覚悟した武将が自邸に火をつけて自刃する慣行,将軍に反抗して本国へ帰る大名が,自分の屋形に火をかける〈自焼没落〉など種々の放火の形がある。鎌倉幕府は,《御成敗式目》で,放火人に対する刑罰を盗賊に準拠と定めるのみであるが,《結城氏新法度(結城家法度)》など戦国法では放火を特に重犯として磔(はりつけ)刑に処すことを定めており,このような放火重罪観は江戸幕府法にも継承されていく。おそらく,このような法の流れの背後には,中世社会における屋焼(ややき)が,殺人,盗みとならんで最大の重犯罪と考えられ,これらの犯罪を当時〈大犯三箇条(だいぼんさんかじよう)〉と称していたという,放火に対する特別の観念が存在したものと思われる。このような特異な家に対する放火の観念は,刑罰としての住宅放火によくあらわれている。荘園領主が荘内の領民に科す刑罰として最も一般的なものは,荘内からの追放,土地をもっていればその没収と,犯人の住宅の検封,破却,焼却とを組み合わせたものであった。この住宅に対する処置の本来的なかたちは,住宅放火であり,放火の対象は,犯人の住宅のみならず,寄宿先,さらにはその縁者の家にまで拡大することがあった。このような住宅放火と追放を組み合わせた刑罰は,サモア諸島などポリネシアの民族にもかつて存在したことが知られ,この放火の意味については,家を焼くことにより,家を先祖に返すという供犠説がとられている。日本の刑罰としての放火も,逃亡百姓が自分の家をこわして逃亡する〈逃毀(にげこぼち)〉の慣行,大名の自焼没落の例などと考えあわせると供犠の意味があったといえるが,同時に,犯罪穢を除去し,領内の禍をたつという祓(はらい)=刑罰としての観念も存在したように思われる。
執筆者:勝俣 鎮夫
戦国時代には焼打,自焼が頻繁に行われたが,太平の世に移るとこれらはごくまれになった。江戸時代,放火は火付(ひつけ)あるいは付火(つけび)と称し,重大な犯罪の一つとされていた。消防力の未発達な当時にあって,いったん火災が発生すれば,ことに都市においては甚大な被害がもたらされたから,失火・放火の防止は社会的な課題であった。しかるに人口の集中により,都市は内部に多数の貧民をかかえることになって,物取り目的の放火や衝動的な放火が相次いだ。江戸における名高いものに八百屋お七(1683処刑)の放火および目黒行人坂(ぎようにんざか)の大火(1772)がある。前者は小説,浄瑠璃,歌舞伎にとり上げられ伝説化した事件であり,後者は明暦の大火(1657)に次ぐ大火災(明和の大火)であった。明暦の大火についても放火説が存在する。このような放火に対し,幕府は強力な取締りと厳重な処罰をもって臨んだ。まず捜査・裁判機関としては火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)があり,町奉行とは別に江戸町方とその周辺の取締りにあたった。民衆には犯人の逮捕,申告が奨励され,褒美(ほうび)も下された。これは火付札と呼ばれる高札(こうさつ)の示すところで,常時高札場に掲げられていた。一方《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》によれば,放火犯には引廻しのうえ,火罪(かざい)(火焙(ひあぶり))の厳刑が科せられた。ただし火を付けても燃え立たなかった場合には,引廻しのうえ死罪とし,また人に頼まれ放火した者は死罪,その依頼人を引廻しのうえ火罪に処した。放火は証拠が少ない犯罪であるゆえにその審理は難事とされ,冤罪もままあったようである。
執筆者:加藤 英明
明治以降,産業の発達,都市化の進展につれて火災件数は漸増している。そのうち放火件数についてみると,第2次大戦前には昭和初期の不況期に増えつづけ,1932年に1463件(全火災件数の7.9%)とピークに達した。戦後の混乱期には放火は少なく,世の中が安定を回復するにつれて増えはじめ,京都の金閣寺火災(1950),東京・谷中五重塔火災(1957)などがあった。放火による大火としては720棟を焼き,焼損面積5万1800m2に達した八戸市の大火(1961)がある。
放火の原因としては怨恨,憤怒によるものが最も多く,犯罪の証拠湮滅をねらうものも昔からあったが,保険金詐取を目的とする放火は現代の特徴である。また近年の特徴として,火災件数に占める放火の割合が上昇傾向にあり(1982年には7381件で全火災の12.2%),とくに都市部でその傾向が強いこと,放火自殺者が1960~70年代に比べ大幅に増えていること(1966-74年平均に比べ82年は4.4倍)などがあげられる。
前206年,項羽に焼打され3ヵ月も燃えつづけたといわれる秦の阿房宮や,64年,暴君ネロの放火と伝えられるローマの大火をはじめ,歴史的な放火事件は数多い。ナポレオンの侵入に対抗した放火によるモスクワ大火(1812)は世界の五大大火(ロンドン1666,エジンバラ1700,コンスタンティノープル1782,シカゴ1871)の一つに数えられている。政治的陰謀がらみではドイツ国会議事堂放火事件(1933)も現代史上逸することができない。放火は公共社会に対しきわめて重大な危険を生じさせるので,単なる財産に対する侵害としてではなく,公共危険罪として各国とも厳罰をもってのぞんでいるのが特徴である。
→放火罪
執筆者:大塚 孝嗣
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…火事とは,建造物,山林・原野,輸送用機器等が放火を含め意図せざる原因によって燃え,自力で拡大していく状態にあるものをいうが,人間にとって有用なものが被災するという点からは,火災と呼ぶ。《消防白書》(消防庁編)は,火災を燃焼対象物により,建物火災,林野火災,車両火災,船舶火災,航空機火災およびその他火災(空地・土手などの枯草,看板などの火災)に分類する。…
…また関八州などでは,ばくち常習の無宿たる博徒の集団が強盗に押し入る例も見られた。江戸時代には盗みとならんで放火も多発したが,放火が盗みを目的として行われる場合もしばしば見られた。なお武士による盗犯もなかったわけではない。…
…日本では,中国の律を継受したこともあって,久しく絶えていたが,戦国時代に復活し,江戸時代初期にはキリシタン弾圧に多用された。のち,もっぱら放火犯に対する刑罰となり,幕府の《公事方御定書(くじかたおさだめがき)》は,付火(つけび)した者,および人に頼んで付火させた者にのみ火罪を科した。罪囚はまず引廻しに付され,江戸ならば小塚原(こづかつぱら)または鈴ヶ森の刑場に至る。…
…戦法の一つで焼討とも書き,城砦・在家(民家)などに放火し,敵陣を攻略すること。市街戦などではこの焼打は常套手段とされた。…
※「放火」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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