兵庫庄
ひようごのしよう
六甲山地西部南麓の沖積地に成立した皇室領庄園で、八部郡に属した。平安時代末期には兵庫三ヵ(三箇)庄ともいわれ、上・中・下三庄に分れていた。正応二年(一二八九)七月二八日の某寺領寄進状案(円蔵院文書)に、妙法寺(現須磨区)毘沙門五大尊に寄進された兵庫中庄内山野開発田畠荒野の西は兵庫下庄とあることから、三ヵ庄は東から上庄・中庄・下庄と並んでいたと推察され、兵庫上庄は現兵庫区の海浜部、葺屋庄(現中央区)の西に福原庄(現兵庫区・中央区)・輪田庄と入交じって、兵庫中庄は現長田区の苅藻川(新湊川)流域に井門庄(現須磨区・長田区)と入交じって、兵庫下庄は現須磨区の妙法寺川流域にあったと考えられる。
長治二年(一一〇五)二月一〇日の橘経遠寄進状(九条家文書)の異筆の追記部分に庄名がみえ、経遠が藤原宗通に寄進した田畠(のちの九条家領輪田庄)のうち八部郡七条三里二八坪と九条四里二〇坪に兵庫庄延定名、七条三里三一坪に兵庫庄松枝名が混在していた。
兵庫庄
ひようごのしよう
興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の山辺郡に「兵庫庄十五町三百歩 不輸免田畠二町四反 公田畠十二町六段大」とある。不輸免田畠の内訳と条里(括弧内は坪数)は、春日社神戸田九反が一四条五里(一)、藤原氏の大学別曹勧学院田一町が一四条五里(一)、大和神社社田五反が一四条五里(一)である。公田畠の条里は一二条六里(二)・七里(四)、一三条五里(七)・六里(一八)、一四条五里(三)・六里(五)、一五条六里(一)である。以上によると、兵庫庄は散在性荘園であり、所在は現兵庫町・長柄町の辺りに比定される。延久以後については未詳。
また永観二年(九八四)と考えられる湛照僧都分付帳(東大寺要録)の雑役免のうちの山辺郡に「兵庫庄十五町百六十歩福丸」とみえ、東大寺雑役免田兵庫庄も早くから存在。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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