日本歴史地名大系 「兵庫庄」の解説
兵庫庄
ひようごのしよう
長治二年(一一〇五)二月一〇日の橘経遠寄進状(九条家文書)の異筆の追記部分に庄名がみえ、経遠が藤原宗通に寄進した田畠(のちの九条家領輪田庄)のうち八部郡七条三里二八坪と九条四里二〇坪に兵庫庄延定名、七条三里三一坪に兵庫庄松枝名が混在していた。
兵庫庄
ひようごのしよう
興福寺雑役免田。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の山辺郡に「兵庫庄十五町三百歩 不輸免田畠二町四反 公田畠十二町六段大」とある。不輸免田畠の内訳と条里(括弧内は坪数)は、春日社神戸田九反が一四条五里(一)、藤原氏の大学別曹
また永観二年(九八四)と考えられる湛照僧都分付帳(東大寺要録)の雑役免のうちの山辺郡に「兵庫庄十五町百六十歩福丸」とみえ、東大寺雑役免田兵庫庄も早くから存在。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報