日本歴史地名大系 「内守谷村」の解説 内守谷村うちもりやむら 茨城県:水海道市内守谷村[現在地名]水海道市内守谷町鬼怒(きぬ)川西北岸に所在。北は小谷沼(こやぬま)新田を挟んで坂手(さかで)村。本郷(ほんごう)・向地(むかいち)・赤松(あかまつ)・鹿小路(かなこうじ)・長之入(ながのいり)の字がある。明治三年(一八七〇)の内守谷村地頭様順記帳(坂巻家文書)によると、天正一八年(一五九〇)から寛永五年(一六二八)まで守谷藩領、万治元年(一六五八)まで天領、元禄一〇年(一六九七)まで旗本知行地、延享四年(一七四七)まで下総関宿藩領、幕末まで田安家領と天領の相給。元禄一二年の内守谷村検地帳(同文書)に村高九四三石余、田畑一六七町余が帳付され、同一四年には内守谷・坂手・菅生(すがお)・大塚戸(おおつかど)の入会の小谷沼の開発によって高五〇一石余、田畑五九町余が増えたが、鬼怒川川床の上昇によって排水不能となり、安永期(一七七二―八一)から寛政期(一七八九―一八〇一)にもとの沼沢にもどってしまった(同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by