内浦街道
うちうらかいどう
能登街道の追分宿である羽咋郡今浜村(現押水町)から、能登半島東側を経て突端の珠洲郡寺家村(現珠洲市)に至る道で、半島の西側を北上してきた外浦街道と結ばれる。邑知地溝帯東辺を通る所口町(現七尾市)までを東往来とも称した。今浜村から北東に敷波村・子浦村・菅原村・杉野屋村(現志雄町)、飯山村・酒井村・四柳村(現羽咋市)、小金森村・高畠村・藤井村・久江村・芹川村・二宮村・石塚村(現鹿島町)、飯川村・古府村(現七尾市)などを通って所口町に入る。南西内陸部に向かってすぐまた北西に転じ、田鶴浜村・大津村(現田鶴浜町)などを経て北上。奥吉田村・浜田村・横見村(現中島町)、志ヶ浦村・大町村などを通って七海村から東に向かい、中居村・川尻村(以上現穴水町)、武連村(現能都町)、前波村(現穴水町)、鵜川村(現能都町)で北東に向きを変える。宇出津村(現同上)、山中村・松波村(現内浦町)、宗玄村・黒丸村・鵜飼村・飯田村・正院村・本村(現珠洲市)などを通過して寺家村に至る。この間「三州地理志稿」によると三五里二九町四五間。正保二年(一六四五)の書上では所口から寺家間を内浦往来と称し、二二里一五町余とする(加能郷土辞彙)。
現押水町から現七尾市の市街地に至る区間は中世横大道とよばれた。元亨元年(一三二一)一二月一六日の関東下知状(宮内庁書陵部所蔵文書)によると、高畠庄内小柴村(現鹿島町)の地頭得田章真と、大町保(現羽咋市)の地頭代重隆の下地相論による和与中分で、横大道の上・下をもって山野・田畠・在家の境界の指標などにしている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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