大町(読み)おおまち

精選版 日本国語大辞典 「大町」の意味・読み・例文・類語

おおまち おほまち【大町】

長野県北西部、松本盆地の北端にある糸魚川街道に沿う旧宿場町。鎌倉時代、仁科(にしな)氏の城下町として発達。紡績・食品工場などが多く、リンゴ栽培もさかん。大糸線が通じ、黒部ダム、仁科三湖などの観光基地。北アルプスの登山口。昭和二九年(一九五四)市制。仁科。

だい‐ちょう ‥チャウ【大町】

江戸の遊里、新吉原の江戸町一、二丁目、京町一丁目、角町の四町をいう。
※洒落本・志羅川夜船(1789)素見高慢「昔はおれもはった者よ。大町六十幾軒に、五十軒の河岸見世、てっぽうにいたる迄」

おおまち おほまち【大町】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「大町」の意味・読み・例文・類語

おおまち〔おほまち〕【大町】

長野県北西部の市。北アルプスの東麓にあり、登山基地。また仁科にしな三湖黒四ダムなどの観光基地。平成18年(2006)1月、八坂村・美麻みあさ村を編入。人口3.0万(2010)。

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日本歴史地名大系 「大町」の解説

大町
おおまち

[現在地名]仙台市大町一―二丁目・一番町いちばんちよう三丁目・片平かたひら一丁目

大手門より芭蕉の辻に向かってほぼ東に延びる大町通に並ぶ両側町。同辻で南北に走る通町とおりまち(奥州街道)により東西に二分され、東へ大町四丁目・五丁目、西へ同三丁目・二丁目・一丁目と続く。

〔由来と規模〕

三・四・五丁目は町方二四町の筆頭、一・二丁目は一八番目に列し(明治二二年城下町検断肝入職制写「仙台市史」所収)、前者は伊達御供の譜代町六町の一であり、後者は史料上それに含まれることがない。永禄年中(一五五八―七〇)米沢城下での創立とされる大町は(嘉永六年大町願状写・年未詳只野家由来書上写「仙台市史」所収)、前者のみをさすと思われる。大町三・四・五丁目肝入の只野家由来書上写によれば、同家は大永年中(一五二一―二八)伊達だて(現福島県)にあり、伊達氏一五代晴宗にも仕えたという由緒をもち、時には戦陣にも従ったとある。また大町三・四・五丁目の検断を代々勤めた青山家も米沢城下の大町以来の検断職で、本丸石垣の普請に従事したという(前掲大町願状写)。まさに伊達譜代の町人であり、仙台開府とともに藩祖政宗に従った町である。慶長六年(一六〇一)より始まる城下の普請始めも大町(三・四・五丁目)を基準として進められるが(只野家由来書上写)、一・二丁目はのちに割付けられたとされる(仙台市史)。ちなみに現存する絵図では正保仙台城絵図はじめ安政仙府絵図まで、丁目の区別はなく大町とのみある。幅五間の街路に並ぶ町並の長さは一―五丁目まで七町(奥陽名数)あり、町の規模は以下のとおり。元禄八年(一六九五)の軒数は三・四・五丁目が八七軒半・検断二・肝入一、一・二丁目が五六軒・肝入なしで検断一(仙台鹿の子)、明和九年(一七七二)の宅地は五ヵ町合せて一四九、男一千五八五・女八五六(封内風土記)、寛政(一七八九―一八〇一)頃の書上(「仙台市史」所収)では三・四・五丁目の家数五五六のうち蔵一一一、一・二丁目が同じく三六六のうち八六、弘化二年(一八四五)の軒数は五ヵ町合せ二一四軒(奥陽名数)、嘉永五年(一八五二)の人頭・人数は三・四・五丁目が一二八人・一千一一人、一・二丁目が七四人・九七八人(切支丹宗門改人数)

大町
おおまち

[現在地名]会津若松市中町なかまち・大町一―二丁目

大町口郭門を出て北へ行く通りで、末は糠塚ぬかづか町に通じ、長さ六町五四間余・幅四間余。至徳元年(一三八四)蘆名直盛が初めて置いた町で、もとは郭内の米代一之よねだいいちの丁の地にあったが、蒲生氏郷が城下町を郭内・郭外に分けたとき現在地に移した。東の一之町と西の七日なぬか町に分れる十字街に、掟条目の制札を掛けたので、この四つ角を札之辻ふだのつじといい、若松から四方に通ずる里程をここから数えた。またこの町の内、五之ごの町より北を大町名子屋なごや町という(新編会津風土記)。文明一三年(一四八一)の伊佐須美神社横管銘に「黒川町大町 佐野七郎忠重」とある。「異本塔寺長帳」大永四年(一五二四)七月一五日条に「大町火本、焼失」とある。また、「会津旧事雑考」享禄元年(一五二八)三月条に「黒川大町焼也。地蔵堂及窪道場焼矣」と記される。「伝蘆名時代黒川城絵図」をみると、大町は城の南、北は興徳こうとく寺の東から南は川のおお橋までの大通りで、城の南西、大町の南に「道場」と記されているのが、くぼ道場であろう。「伊達天正日記」天正一八年(一五九〇)三月二二日条に「馬場・大町之しゆ、出立申候ヲ、御庭にて御覧し候」とあり、伊達政宗に黒川くろかわ城下町人衆が伺候している。

大町
おおまち

[現在地名]函館市大町

函館山の北東面に開けた箱館町のほぼ中央部に位置し、弁天べんてん町などとともに箱館で最も早くに開けた町の一つ。町屋は弁天町・当町・内澗うちま町と続く通りの両側に立並び、北西―南東に走るこの通りが箱館町の表通りにあたった。北東ははじめ箱館湊に面していたが、近世末から明治初年にかけて当町や弁天町・内澗町などの地先は埋立てられ、のちに仲浜なかはま町などが成立する。「東蝦夷地道中記」が記す箱館の町八町や「蝦夷島奇観」があげる箱館の町一〇町のうちに「大町」とある。明治二年(一八六九)の箱館大町家並絵図(市立函館図書館蔵)では、内澗町境の御役所おやくしよ(現基坂)から北西へ一―四丁目があり、一丁目の中ほどの坂が白鳥しらとり坂、一丁目と二丁目の境の坂が浄玄寺じようげんじ(あるいは喜楽町坂)、二丁目と三丁目との間の坂が称名寺しようみようじ(あるいは七軒町坂)、三丁目と四丁目との間の坂が実行寺じつぎようじ(あるいは三丁目横丁)とよばれていた。御役所坂は両側が松並木で、同坂を下りたところが運上所、実行寺坂を下りたところが「沖ノ口役所」であった。

大町
おおまち

[現在地名]米沢市大町二―四丁目・門東町もんとうまち一―三丁目

城の東、三の丸堀に接して、その東にある町人町。堀を隔て西は門東町。南北の道の両側に発達した城下町人町の中核。伊達輝宗日記(伊達家文書)天正二年(一五七四)四月三日条に、八幡へ参詣の帰路「大町」にて騎馬したとみえ、伊達氏時代には成立していた。伊達氏時代の成立はあら町・ひがし町・やなぎ町・たつ町・みなみ(大覚町または大学町とも)と当町の六町で、以降「六町」と称された(奥羽編年史料)。蒲生氏時代の慶長二年(一五九七)六町のほか御免ごめん町・河田かわだ町など五町を含め一一町の地租・上納条件が定められたという(米沢商業記録)。同六年上杉氏の米沢入部後の城下再編により同一三年、三の丸堀が掘削された際、翌一四年頃までに三の丸外に移され、跡地は門東町となった。元和年間(一六一五―二四)粡町にあった札場(札の辻)が当町に移され、各街道の起点となり、また市も六町に順番に立つこととなり、当町市日は五・九・一九・二五・二九であった(米沢雑事記)

大町
おおまち

[現在地名]秋田市大町一―三丁目の各一部

外町の中心で、あさひ川から西へ二番目の通り。北から一―三丁目に分れる。「梅津政景日記」寛永六年(一六二九)三月二六日条によれば、「大町ハ御城近くニ候間、通りニ無之候もさかり申」町割で、当初は馬口労ばくろう町に突き抜けていなかった。旅人の往還より「給人之自用、町人之自用能」き流通市場として計画された。しかし、同書同八年四月八日条によれば、町割直しを命じ、大町筋もちや町筋とともに旅人往還の道となった。土崎湊つちざきみなとからの移転は久保田くぼたの町割が開始された慶長一二年(一六〇七)で、同書寛永九年六月一九日条に「大町之者御城移ニ罷移候」とある。また同じ理由により「八千八色」の家督商品の占売りを許された。

大町は茶町と同様に、羽州街道往還の公的使者などの宿泊・接待の役を果した。

大町
おおまち

[現在地名]宇都宮市一番町いちばんちよう大通りおおどおり二丁目・馬場通りばばどおり三丁目

奥州街道筋の東西の町人町。東は上河原かみがわら町、西は日野ひの町へ続く。南はこく町、北は大工だいく町。城下した町の中心街。慶長一九年(一六一二)藩主奥平大膳大夫家昌の代に当町で大膳市が開かれ、町名となったという。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえ、西端を北へ折れた南北の通り沿いにさかな町とある。魚の専売権をもつ町として繁栄し、大町魚店の事(上野秀文文書)によれば、もと魚問屋は今小路いまこうじ町にあったが、元和六年(一六二〇)本多正純の町割により今小路御門が新設されたため大町に移転した。寛永元年(一六二四)西側一六間、東側で二〇間の場所に九尺の板庇を懸けて商売をする許可が下り、宇都宮城下の魚商売の独占権を得た。この礼に魚問屋では、城主に毎年暮れに塩引鮭・鱈などを献上したという。承応四年(一六五五)からは塩魚の代りに小間一間につき五四文ずつ取立て、それをまとめて鐚二貫文を出した。

大町
おおまち

[現在地名]三春町大町・南町みなみまち会下谷えげだに桜谷さくらだに小金滝こがねだき

三春城下六町の一つ大町を中心とする行政地区。平姓三春田村氏が永正子年(一五〇四または一五一六)守山もりやま(現郡山市)から移住した際に大町も旧地から移したという。宝永四年(一七〇七)の三春城下絵図(浪岡家蔵)を諸書によって補って記せば、大町は守城しゆじよう稲荷(桜谷入口)から大手門まで五八間、大手門から枡形喰違いまで一町、枡形喰違いから大町四辻よつつじ(通称四つ角)まで二六間半、大町四辻からなか町入口まで一町八間、中町入口からあら町見付まで一町一六間で、枡形喰違いから荒町見付までが町屋敷で、道幅六間半の両側町。大町四辻裏・枡形喰違いから守城稲荷までは家中屋敷ならびに役所。

大町
おおまち

[現在地名]水沢市 大町

町人町水沢六町の中心の町。よこ町の北に続く奥州街道の両側町で、北はさかうえよりやなぎ町に接続し、中央より西に分れる道の枡形(大手枡形)を通り、水沢城正面の大手おおて小路に至る。町の南方より東に分れる道がてら小路で安土呂井あとろい御蔵への道でもある。寛永一八年(一六四一)の塩竈村検地帳(県立図書館蔵)に町名がみえ、屋敷数五〇、検断は帯刀。屋敷割は平均して八・九間×二八間(岩手県史)。町の長さと軒数は元禄一〇年(一六九七)三町五〇間二尺、四七軒(菅原文書)、安永五年(一七七六)四町五間三尺、九〇軒(水沢町方等安永風土記)。当町の守護神で市神でもある春日権現や凶作の折の五穀成就祈祷所である文殊堂があった。

水沢宿の機能を分担する一町で、町の中央東側に検断芳賀氏屋敷(南北約六間半×東西約三一間)があり、その北に並び人馬継立の問屋場(南北約一三間×東西約二九間)がある。


おおひまち

[現在地名]金沢市大樋町・春日町かすがまち鳴和なるわ一丁目

卯辰うたつ山緩斜面の金腐かなくさり川左岸に位置。春日町の北東に続く北陸街道の両側町で地子町。通りの長さ約三町三四間(皇国地誌)。大樋村領が町立てされたもので、春日町との境にあたる場所には城下の北の入口を示す下口しもつくちの松門が残る。町立ては文政四年(一八二一)だが(国事雑抄)、「改作所旧記」の延宝二年(一六七四)四月の記事に大樋町とあり、同四年には城下の地子地を御用地として召上げた時の代替地の一つに大樋口道筋があげられており(同書)、大樋村の町続き地を町方とする考えが強かったことが知られる。「年代摘要」によれば享保一五年(一七三〇)の大樋村町続きの家数は一一一で、すべて頭振であった。

大町
おおまち

[現在地名]滑川市大町

滑川町を東西に二分してほぼ北流するなか川の東岸に位置する。東のあら(かつての新町)から続く北陸街道の両側町で、西は中川を渡って橋場はしば町に丁字状に突当る。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)に大町とみえる。称永しようえい寺蔵の阿弥陀如来絵像には永正一〇年(一五一三)五月三日に本願寺実如が釈浄念の求めにより裏書を与えており、そのなかに「越中国新河郡賀積保滑河大町」とあることから、当町は戦国期には成立していたと考えられる。釈浄念は初め蜷川新左衛門政成と称し、明応二年(一四九三)に一族郎党を率いて当地に移り、小城を築いたと伝える(称永寺文書)


おおつちちよう

面積:一九九・七五平方キロ

上閉伊郡の東部、太平洋岸に位置する。東を除く三方は山で囲まれ、東西に長い。西には妙沢みようたく(一一〇三・三メートル)長者ちようじや(一〇一〇・五メートル)白見しらみ(一一七二・六メートル)など北上高地の支脈が尾根を連ね、下閉伊郡川井かわい村、遠野市と境する。南は葡萄ぶどう(五八七・九メートル)・オイネガ森(六六四・九メートル)などを境に釜石市、北はくじら(六一〇・二メートル)鳥古とりこ(八五〇メートル)水呑場みずのみば(九四七メートル)などを境に下閉伊郡山田やまだ町に接する。

大町
おおまち

[現在地名]能代市大町

西は下川反しもかわばた町、北は砂浜を挟んで米代川に面している。享保七年(一七二二)能代町絵図(能代市役所蔵)に大町がある。「代邑聞見録」は大町は「建年不知」であるが、おそらく弘治年間(一五五五―五八)としている。野代山王社由来記に弘治年間に川筋が変化したので「人家百余、姥が懐うばがふところを引払い、東の野中を開き移住す。今の大町上町なり」とあり、清水政吉が姥が懐から移住したのを弘治二年としている。菅江真澄の「雪の道奥雪の出羽路」に「今の能代に移りて家居あまた軒をつらねたり、この清水政吉のすわれば、そこを親町として名を大町といへり」とある。

大町
おおちよう

[現在地名]堺市おおひがし一丁・おお西にし一丁

甲斐町かいのちようの南、大道を挟む両側町。文明一五年(一四八三)二月一八日塩屋三郎二郎田地売券(開口神社文書)によると、塩屋三郎二郎は「堺南庄大道」の人とされており、大道は当町のことと考えられる。天文四年(一五三五)四月二八日の念仏寺築地修理料差文(同文書)には「大道町」とみえ、「こんたや」「やを屋」「石津や」「ほりや」「ぬの屋」「かミや」「くみや」「たかや」「ひのくちや」の屋号をもつ一〇人の名が記されている。

大町
おおまち

[現在地名]五戸町 上大かみおお町・下大しもおお

五戸代官所の東南に位置し、南東はうま(博労町)あら町に接する。ほぼ中央のしん町角より上大町・下大町に分れる。五戸町の中心街で本町にあたる。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に大町とあり、家数は六五。藩政期末の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図では上下に分れ、上大町の南東に荒町、下大町の南東に馬町がある。

大町
おおまち

[現在地名]結城市結城 大町

結城城下の中心にあり、経済的にもその中心として繁栄した。文禄年間(一五九二―九六)に結城秀康が新城下を建設した時から、町人町の中核としての位置を与えていた。地子免除地。元禄四年(一六九一)の結城町町中間数・家数・屋敷町歩書上帳(赤荻和弥文書)によると、町中間数は三町四二間。宝永五年(一七〇八)の結城町明細帳之控(田宮家文書)によれば大町上おおまちかみ町・大町中町・大町下町からなり、上町には店借り一五・寺門前一を含む三〇軒の家と番屋一、真言宗正福しようふく寺があり、中町には店借り一五を含む三一軒の家と番屋一があり、下町には店借り一四などを含む三五軒の家と番屋一があった。

大町
おおまち

[現在地名]魚津市本町ほんまち一―二丁目・新宿しんじゆく新角川しんかどがわ一丁目

魚津町の中心部、魚津城跡の西正面にあたる。南北に走る北陸街道の両側町で、同街道沿いの通り町八町の一つ。北陸街道は当町南端で東に折れておか町から角川町へ続き、北はもう一つの岡町で東に折れてあら町に続く。東は出丸でまる町、西は富山湾に臨む。魚津町で本町とよばれるのは通り町八町のうちの大町・荒町・真成寺しんじようじ町・角川町で、夜番は輪番で亭主番といわれており、他の町の辻番所と区別されている(魚津市史)

大町
おおまち

[現在地名]能代市檜山字檜山町

馬苦労ばくろう町の東端を南に折れて、かみ町までの一七八間。両側に町屋が並ぶ。町の南端、上町に接して浄明じようみよう寺がある。その北隣に地蔵院があったが天保二年(一八三一)の檜山絵図(秋田県庁蔵)では楞厳りようごん院がある。

大町の中ほどから西へ亀井戸かめいど町が延びるが、その入口の北角に札場がある。檜山は羽州街道の札場で、天和元年(一六八一)の御領内道程(羽陰史略)に、

<資料は省略されています>

とある。また慶応元年(一八六五)の「町触」(秋田藩町触集)によると、「当丑年より来る巳年まて五ケ年之間、他所旅人之外自分往来之もの、人馬本賃銭五割増可請取旨申渡候」となっている。

大町
おおまち

[現在地名]下館市こう 大町

うわ町の本通りをなす町筋で、大手門の東寄りを南へ延びる。水谷氏時代は新宿と記されるが、寛永一六年(一六三九)の松平氏入封により大町と改称し、同年の下館城図(田宮家蔵)に町名がある。なお脇坂安元の「下館日記」抄では本町とする。

町内は大手門前から南へ上中下の三町に細分され、繰綿木綿問屋・酒醤油醸造・肥料問屋などの商家が多く、また本陣・問屋も設けられていた。水谷氏時代から特別待遇をうけた有力商人は上町十人士とよばれ、松平氏時代にも引続き特権を認められて町年寄として町政を担当した。

大町
おおまち

[現在地名]青森市安方やすかた二丁目・ほん町二丁目・同五丁目の各一部

はま町の南、御倉おくら之通からしお町までを大町とよび、初め本町とよんだ。

寛永元年(一六二四)に青森の町づくりが行われたとき浜町・こめ町とともに最初につくられた青森派立一千九五軒の一つである(津軽歴代記類)。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「正覚寺通より西を上大かみおほ町と云ひ、福士之通より上を中大なかおほ町と云ひ、塩町橋より上を下大しもおほ町といふ」とある。町頭の佐藤理右衛門・村井新助がこの町に住み、大町は青森町の政治行政の中心であった。貞享四年(一六八七)の検地では上町(上大町)に四九人、中町(中大町)に三一人、下町(下大町)に五二人、計一三二人の町人が記される(青森市沿革史)

大町
おおまち

[現在地名]糸魚川市大町一―二丁目・ほん町・てら町一丁目・同四丁目・南寺みなみてら町一―三丁目・一の宮いちのみや一丁目・同四丁目・清崎きよさき中央ちゆうおう一丁目

東西に走る北陸道に沿った糸魚川町の中央にあり、東はじようノ川を隔てて寺町に続き、西の町並の北側は新屋あらや町、南側は七間しちけん町に続く。慶長三年(一五九八)の検地帳(小林昭三氏蔵)によれば田方七町五反余・此米九四石八斗余、居屋敷分三反余・此米二石七斗余、家数二五とある。延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では「糸魚川分 大町」として高一一七石一斗余、同所改出高七石二斗余で、「此所 酒屋四軒 米 六百八石 巳年酒ニ造ル分 米 三百三石 午年同理り」と記される。天和三年郷帳では大町村とあり、高二三一石九斗余。

大町
おおまち

[現在地名]笠間市笠間

城下の東部、佐白さしろ山麓に位置する。古くはもと町と称する。城下の中心地で、北は愛宕あたご町。南北に道が通り、上の木戸から下の木戸までは約四町四七間(「御領分新絵図出来ニ付村々里数改帳」茨城県歴史館蔵)。道の両側に店舗が並び、宿場にもなっていた。また道の東側を蒲生がもう用水が南流し、防火用水として使われた。

文禄三年(一五九四)城主玉生忠勝の時に石井いしい村の住民を移して建設された。

大町
おおまち

[現在地名]横手市大町

城の南西方、外町東端の町で、東と北はそれぞれ横手川を隔てて通称上内かみうち町と下内しもうち町。外町の中で最も城に近い。商業・市場の神を祀る蛭子ひるこ神社(現田中町)が、天正二年(一五七四)に大町・四日よつか町の南側(のちの二日町、現鍛冶町)に建立され、文禄年中(一五九二―九六)城主小野寺義道が神輿を寄進したこと(「蛭子社縁起」横手郷土史資料)、さらに藩政初期と推定される横手古図(石川教敏氏蔵)にみえることなどから、戦国末期に成立した町と考えられる。

大町
おおまち

[現在地名]栃尾市大町

栃尾城跡のある鶴城かくじよう(二二七・七メートル)東麓、西谷にしだに川左岸に位置する。戦国期に栃尾城を後ろ盾として形成された根小屋集落で、城の大手門前にあたるので大町の地名が付けられたと推定される。東に市場の立った七日なのか町が直交する。寛延三年(一七五〇)の栃尾町村絵図(富川家文書)には大町・七日町付近には金井廻輪かないくるわ五郎丸畑ごろうまるばたけ(後藤曲輪)などの地名がみえる。延宝三年(一六七五)の屋敷改検地帳(同文書)では表間口合計一八一間・地子米合計三石余。町肝煎家の富川伊右衛門が間口一三間余の諸役御免の屋敷を構え、通りを挟んで向いに同じ町肝煎家富川六郎左衛門、両肝煎の両隣に町年寄の佐藤・坂井・安川の諸家が並び、栃尾組の酒三座(長岡藩酒屋株五三座のうち)であった大坂屋・長崎屋・山城屋も軒を並べる。

大町
おおまち

[現在地名]大館市大町・末広すえひろ

町人町である外町西端部。南北に走る羽州街道沿いに立地し、北は町に連なり、東方から入るなか町・馬口労ばくろう町などとは垂直に交わる。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「大町」とみえる。延宝三年(一六七五)あら町を改名したのが始まりという(六郡郡邑記)。「郷村史略」には、この時酒屋とともに茶・紙・木綿商売の者を大町・馬口労町に居住させたとある。

外町の中核として発展、延宝三年の大館町市日相定之事(大館肝煎文書)によれば、二の日には大町と新町が交互に市を立てた。その後羽州街道の整備に伴い発展を続けたようで、大館旧記に「延宝三年までは月六才の市(中略)其後三才になりて、大町は往還の為に日市、其他正月十二日、五月二日市立なり」とあり、大町ではほとんど毎日市が立つようになった。

大町
おおまち

[現在地名]水戸市大町一―三丁目

田見小路たみこうじの南側に東西に通じる町で、西は西にし町に至り、東は元白銀もとしろかね町。

天正一九年(一五九一)佐竹氏の水戸入城の頃から開け、ここからなか町・みなみ町にかけて商家が主であった。佐竹義宣は大町を「御町」ともよび、特権を与えて城下町規制の中心にしようとした(水戸市史)。「大和田重清日記」の文禄二年(一五九三)一一月二八日の項に「大町之焼亡出来」の記述がある。

大町
おおまち

[現在地名]厳原町国分こくぶ

国分町の北部に位置する。府中ふちゆう商人町二四ヵ町の一つ。かつては浦浜で、平津ひらつと称したという。今屋敷いまやしきとの境の橋を江尻えじり橋とよぶ。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「大町」二〇軒とある。同五年一月大町の長島屋長左衛門宅などから出火、侍家一九軒を含む家数二八〇を焼失、元禄元年(一六八八)一二月「大町西之後新町」の串崎勘右衛門宅から出火、本家二一九軒・借屋二八六軒、辻番屋六軒が焼失(表書札方毎日記)。延宝九年の年行司町人返答書(宗家文庫文書)に大町とみえ、乙名は住永五郎左衛門で、本家二一、また朝鮮往来船二一艘で、蝋・銅・胡椒・丹木などを積渡すと記される。

大町
おおまち

昭和三年(一九二八)一月に成立した現在の苫小牧市の町名。東はにしき町。町名は同年の町名設定時に苫小牧の中心街になりつつあったので、その大なる発展を願って命名。同年に苫小牧町大字大町が誕生、現在の寿ことぶき町を含む(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)。同一九年の大字廃止字名改称により苫小牧町大町となった(「苫小牧町字地番整理調書」同館蔵)。同二三年市制施行により苫小牧市大町となり、同四五年の住居表示実施で一―二丁目を設定、一部を寿町一―二丁目、高砂たかさご町二丁目、さかえ町一丁目に移した(住居表示新旧対照表)。大正一〇年(一九二一)のコイノボリ大火後は苫小牧の中心地として発展、町役場前(現在の寿町)には商工会事務所・女子技芸学校・代書屋などがあり、映画館やカフェー、飲食店が立並ぶ歓楽街となっていた。

大町
おおまち

[現在地名]村上市大町

城下町の中央にあり、南はかん町と接し、一町五〇間余延び北の小町に継ぐ。上町との境は丁字路になって、高札場がありふだつじとよばれていた。一方北の端は食違いの十字路で、東に折れると追手おつて門、西に折れればてら町に通じる。城下で最も早く開けた町であるといわれ、集落も大きかったので大町と称したと伝えられる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図にみえる「村上町」の中心にあたるものか。

大町
おおまち

[現在地名]土浦市大町

土浦城の南西に位置する。水戸街道の交通量の増大、霞ヶ浦を通じての桜川の水運の発達によって町屋を必要としたため、享保一二年(一七二七)田宿たじゆく町南門外の水戸街道の松並木を伐採して設けられた(土浦市史)

元文年間(一七三六―四一)の中城町分戸別図(国立史料館蔵)には「入口より銭亀橋詰迄弐百拾間三尺、幅六間」とあり、田宿町寄りに一里塚が描かれている。一里塚は日本橋を起点として一八番目にあたり、嘉永七年中城東崎名主年寄長百姓迄御達面(土浦市立図書館蔵)に「東之一里塚ハ(中略)敷三拾六歩のこと」とある。

大町
おおまち

大正一一年(一九二二)から昭和四一年(一九六六)までの町名。絵鞆えとも半島の中央部に位置し、現在の中央ちゆうおう町の一部にあたる。町名の由来は中央枢区であることによる。もとは室蘭区大字札幌通さつぽろどおりの一部の幕西まくにし町入口から日商銀行角までの地で、大正一一年四月に室蘭区大町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。札幌本道開削以来、室蘭の商店街の中心地で、明治二四年(一八九一)の丸井今井百貨店室蘭支店の開店によってさらに発展した。

大町
おおまち

[現在地名]姫路市飾磨区大浜しかまくおおはま

飾万しかま津の浦手うらて六町の一つで、須加すか町の北に位置する。元文五年(一七四〇)の地子銀高六〇四匁余(姫路町飾万津町地子銀控)。弘化四年(一八四七)の飾万津中明細覚書(藤田家文書)によれば人数四四二・竈数一二六(本組四七・店組七九)

大町
おおまち

昭和二七年(一九五二)に設定された。大通東おおどおりひがし九丁目・北一条東きたいちじようひがし九丁目などの北東にある。東境はJR石北せきほく本線、その西を国道三九号(中央道路)が北東から南西に通り、南西を青葉あおば(東四号)が通る。北側は北四条きたよじよう通に接し高台になっている。

大町
おおまち

[現在地名]相馬市中村なかむら 大町

慶長一六年(一六一一)に中村城下に設定された市廛四坊の一つで、南は宇多川うだがわ町、北は町・御徒士おかち町・鞘師さやし町、西はうわ町に接する。東西四町五二間、幅五間四尺の浜街道の両側町で(「奥相志」など)、「宇多郡村誌」には東西三二二間・南北三六間とある。田町と月交替で中村宿の駅務を勤めたが、天保年間(一八三〇―四四)からは当町のみで勤めることとなり、城下で最も繁華を誇った。

大町
おおまち

[現在地名]本荘市大町

本荘城下町の町人町である外町の中心地。南は町、北はうしろ町で、南は矢島やしま(現由利郡矢島町)、西は酒田(現山形県酒田市)、北は秋田(現秋田市)、東は横手(現横手市)に通じる街道の集中点をなす交通の要衝である。安政二年(一八五五)東講商人鑑によれば、大町には東講商人定宿として小松屋儀兵衛・池田屋三郎治の二軒と御用桑酒池田屋嘉兵衛の名がある。

大町
おおまち

みなと町の北にある。昭和二四年(一九四九)大字留萌村の一部を区画して成立。大字留萌村のサキ・留萌・ヒヨリ山の下やまのした川上かわかみ山の上やまのうえ瀬越せごし・オムロの一部で、一丁目から三丁目まで設置。同二五年の戸口は二四〇戸・一千二〇三人(留萌市統計書)。大町二丁目に昭和二三年から駐留軍の留萌駐屯地が置かれた。同三〇年以降母子住宅・社会福祉住宅の建設で住宅団地を形成。

大町
おおまち

[現在地名]旭川市大町一条おおまちいちじよう大町二条おおまちにじよう大町三条おおまちさんじよう

昭和四年(一九二九)四月に新設された町。明治三五年(一九〇二)三月までは鷹栖たかす村のうちで、同年四月旭川町に編入された旧鷹栖村字近文あざちかぶみに相当する。

大町
おおまち

[現在地名]六郷町六郷 大町

羽州街道の表通り六郷駅の中心で、札場が置かれ、本陣屋敷と休所・伝馬役所があった。宝永七年(一七一〇)六郷本館村より願書(六郷町郷土志重要資料)に「御伝馬十一日、御賄十五日、市七斎、見せ賃九十貫文程」とある。

寛保二年(一七四二)の御伝馬除屋鋪駅場方品々亀鑑(六郷町郷土史料)によれば駅馬の負担は「上町大町上十三日相勤之内朔日より六日迄大町ニ相勤」と定められ、「裏町・本道町両町ニ居候高持百姓之内、上町大町家数五拾三軒明家、明屋敷へ不残居塞候様ニ可被移置」ともあり、さびれた町の復興をはかっている。

大町
おおまち

山口町の中心地である大市おおいち町・中市なかいち町・米屋こめや(晦日市)など石州街道沿いの町の総称。

山口に住した明人張思朝が屋敷を賜った地が大町で、永禄八年(一五六五)九月八日付の毛利輝元の思朝宛の宛行状(「閥閲録」所収)に「山口大町之内父張忠居屋敷之事、任隆元御袖判之奉書之旨令宛行者也、全可有居住之状如件」とある。

大町
おおまち

[現在地名]湯沢市大町一丁目・同二丁目

羽州街道に沿い、南は町、北はやなぎ町と接する。柳町との境界をなす道の東の突当りに所預佐竹南家の居館淡路あわじ屋敷がある。柳町とともに外町の中心で、制札場が置かれた。

大町
おおまち

[現在地名]釧路市大町一―八丁目・入舟いりふね三―七丁目・南大通みなみおおどおり一―八丁目

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと洲崎すざき町・入舟町の一部。明治末期より昭和初期にかけて郵便局本局・電話局・安田銀行・明治商会などが開設されていた。

大町
おおまち

[現在地名]鹿角市花輪 大町

花輪はなわの中央部に位置し、寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に「四十軒大町」とある。鹿角街道沿いに形成され、北は新町、南は中町。北端は東西に走る横町の道と直角に交わる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「大町」の意味・わかりやすい解説

大町[市] (おおまち)

長野県北西部の市。2006年1月旧大町市が美麻(みあさ)村と八坂(やさか)村を編入して成立した。人口2万9801(2010)。

大町市中西部の旧市。松本盆地の北端にある。1954年大町と平,常盤,社の3村が合体,市制。人口2万9798(2005)。中世の豪族仁科氏の居城があったことから,仁科神明宮(本殿,中門,釣屋は国宝),若一王子(にやくいちおうじ)神社(重要文化財)をはじめ文化財が多く,仁科氏文化圏の中心とされる。江戸時代の大町は糸魚川(千国(ちくに))街道に沿い,北方の姫川渓谷と南方の盆地平たん部との接点にあたるため市場町として発展した。JR大糸線が通じる。市域の西部は北アルプス(飛驒山脈)で,槍ヶ岳まで市域に含まれている。また立山黒部アルペンルートの大町トンネルを通じて,黒部峡谷とも結ばれていることから,登山基地としての性格が強い。市内にある山岳博物館は,登山や狩猟関係の貴重な資料を所蔵しているので有名。高瀬川渓谷には東京電力の高瀬ダム(1977完成),七倉ダム(1978)があり,両ダムから揚水する新高瀬川発電所(合わせて128万kW,1982年からフル運転開始)が設けられ,その上流からアルプス裏銀座への登山路が通じている。また市の北部には青木湖中綱湖木崎湖の仁科三湖があり,観光地になっている。木崎湖畔にある木崎夏期大学は,1917年の設立で,日本で最も古い歴史をもつ。
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大町市北東端の旧村。旧北安曇(きたあずみ)郡所属。人口1235(2005)。旧大町市の東隣,仁科三湖の東方にあり,地形は起伏に富み村域の大半が山林・原野である。近年まで麻の特産地として知られ,かつてはタイマ栽培を中心に木炭生産,養蚕などが行われたが,1960年ころから挙家離村が激化し,県下で最も過疎化が進行した。70年代に入り道路整備などによって近隣市町村への通勤が可能となった。米作中心の農業を営むが,タバコと高原野菜の栽培が伸びている。新行(しんぎよう)には夏季の学生村,冬季のスキー民宿がある。南部の大塩にあるイヌ桜は県天然記念物。

大町市東端の旧村。旧北安曇郡所属。人口1112(2005)。犀川(さいがわ)丘陵に位置する山村で,西は旧大町市に隣接する。東端の犀川沿いを国道19号線が通じる。養蚕を中心に山間地農業が行われていたが,昭和30年代の後半から人口が急減し,現在は典型的な過疎村となっている。米作,野菜栽培を中心とする農業が主産業であるが,ほとんどが兼業農家で,旧大町市などへの通勤者が増加している。南鷹狩山南麓の唐花見(からけみ)湿原は高層湿原として有名。南端の藤尾にある覚音寺は重要文化財の千手観音像・木造持国天立像・多聞天立像があることで知られる。
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大町[町] (おおまち)

佐賀県中央部,杵島郡の町。人口7369(2010)。北は多久市,南は六角川を境に白石町に接する。北部は山地,南部は筑紫平野の沖積低地で,中央部をJR佐世保線,国道34号線が通じる。明治以降,杵島炭鉱の発展により炭鉱町として栄えたが,1950年代以降の石炭産業の崩壊で,69年に杵島炭鉱が閉山,過疎化と鉱害に悩まされることになった。その後,鉱山遊休地へ工業を積極的に導入し,現在では機械,金属,縫製などの工場が町経済を支える。農業は南部の米作を主体にミカン,イチゴ栽培,畜産などが盛んである。道金塚古墳,仏法堤経塚があり,幕末の町家土井家住宅は重要文化財に指定されている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大町」の解説

大町 たいちょう

中西大町(なかにし-たいちょう)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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