浜村(読み)はまむら

日本歴史地名大系 「浜村」の解説

浜村
はまむら

[現在地名]庵治町 久通くず丸山まるやま新開しんがい才田さいたはまたに王の下おうのした江の浜えのはま竹居たけい笹尾ささお鎌野かまの篠尾しのお高尻こうじり中央ちゆうおう大島おおしま

庵治浦ともよばれ、庵治半島の海岸部と、大島・かぶと島・よろい島・稲毛いなげ島・たか島の島嶼部からなる。庵治浜村ともいう。丸山から弥生時代の銅鉾が出土している。屋島合戦の時、平家軍が当浦で船団を整えたという船隠ふなかくしの地名がある。文安二年(一四四五)の「兵庫北関入船納帳」によると菴治(阿治)からの船が一〇回通関しているが、讃岐国人十河氏の国領船で、もっぱら方本かたもと(潟元、現高松市)の塩を輸送している。寛永一九年(一六四二)の高松領小物成帳には庵治浦の綿三八〇目一分、庵治村の塩三三石五斗八升八合を記すが、塩はすべて浜村分と推定される。貞享高辻帳に浜村・くが村二村がみえる。しかし両村を一括して庵治村という場合も多かった。天保郷帳によると浜村の高三一二石余。溜池は鎌野池・竹居池など五〇(池泉合符録)。寛政(一七八九―一八〇一)頃から砂糖の生産が普及した。明治三年(一八七〇)の甘蔗作付面積四町余、砂糖絞車一〇挺。安永(一七七二―八一)頃の庵治浜村水夫除地絵図(渡辺文書)には村内才田に塩浜四筆と塩釜屋敷とが描かれており、同地には塩釜しおがま神社が残っている。


浜村
はまむら

[現在地名]水俣市浜・浜町一―三丁目・昭和しようわ町一―二丁目・さかえ町一―二丁目・大黒だいこく町一―二丁目・古賀こが町一―二丁目・塩浜しおはま町・浜松はままつ町・八幡はちまん町一―三丁目・洗切あらいきり町・さいわい町・野口のぐち町・桜井さくらい町一―三丁目・あさひ町一―二丁目・大園おおぞの町一丁目・天神てんじん町一丁目・中央公園ちゆうおうこうえんひら町一丁目・山手やまて町一丁目・多々良たたら町・丸島まるしま町一―三丁目・祇園ぎおん町・梅戸うめど町一―二丁目・汐見しおみ町一―二丁目・明神みようじん町・みなと町一丁目・百間ひやつけん町一丁目・白浜しらはま町・さくらおかまきうち

水俣川と湯出ゆのつる川が八代海に注ぐ河口部の三角洲上にあり、南に南福寺なんぷくじ村と江添えぞえ村、西に丸島村があり、西北部は八代海に面する。


浜村
はまむら

[現在地名]西伊豆町仁科にしな

田子たご村の南に位置し、仁科川が南西流して駿河湾に流れ込む。安城山あじようやま城は須田氏の居城と伝えられ、天文四年(一五三五)なか海名野かいなのに移ったという(掛川誌稿)。天文一二年一一月六日北条氏は須田隼人佐に対し、四板舟一艘の諸役を免除し舟役銭のみを出すよう命じている(「北条家朱印状写」伊豆順行記)佐波さわ神社に所蔵される天正九年(一五八一)一一月の八幡社殿修理の棟札には「仁科庄本郷沢田村」とみえる。沢田さわだは現在通称名として残る。浜村・中村・一色いつしき村は合せて仁科郷またはほん郷といわれ、文禄三年(一五九四)の検地では高九八八石余(享保一七年「村差出帳」石田家文書)


浜村
はまむら

[現在地名]舞鶴市字浜・桃山ももやま

市場いちば村の西方、てら川と与保呂よほろ川に挟まれた河口付近に立地、集落は海岸付近にも散在するが、農業を中心とした。得月とくげつ(臨済宗天龍寺派)前を寺町てらまちとよび門前町的色彩もあった。

慶長検地郷村帳に高五七五・五二石「浜村」とみえる。土目録には五七六石余とあり、内訳は田方五五三石余、畑方二二石余で、運上のなかに鮭取分が記される。延享三年(一七四六)の郡中高究付覚によれば農家戸数は八三。農業の傍ら一〇月から翌年四月頃まで素麺を製造しており、藍・木綿なども作った(京都府地誌)

浜村の氏神であった隣村もり村の大森おおもり神社(弥加宜神社)の祭礼道具は、以前浜村のいその島にあって竜宮より納められたものと伝え、「丹哥府志」に

<資料は省略されています>

と記される。


浜村
ばまむら

[現在地名]勝連町はま

浜比嘉はまひが島北西部にある。北東部の比嘉ひじや村と合せ浜比嘉ばまひじや村として扱われることもあった。「おもろさうし」巻一六の五に「一 せたかおわもりきや(霊能高きオワモリ〔神女〕が)/おれてふれまへは(降りて群れ舞えば)/しまかよて くるやに(島に通って来るように)/又 きみのおわもりきや(君のオワモリが)/又 ま物よせちよわちへ(真物〔霊力〕寄せ〔建物〕に来られて)/いけはなれ ちよわちへ(伊計離れ〔伊計島〕に来られて)/又 さすかおそい ちよわちへ(サスが襲い〔建物〕に来られて)/はまひやもさみやれは(浜 平安座 見やると)」とある。絵図郷村帳には「はま村」とある。琉球国高究帳には「ばま嶋」とあり、高頭四四石余、田二七石余・畠一七石余。


浜村
はまむら

[現在地名]御宿町浜

六軒ろつけん町の南西に位置し、南は網代あじろ(御宿浦)に接する。慶長二年(一五九七)の御宿郷縄打帳写(御宿町史料)に集落名「はま」がみえ、屋敷数四二。明暦年間(一六五五―五八)に御宿村(郷)が四村に分れて成立。御宿浜村ともいった。延宝五年(一六七七)武蔵忍藩領を分知された旗本阿部氏領(二千石)となる。高三九七石余のうち一〇〇石余は須賀すか村内への出作(「中滝領分知帳」中村家文書)。幕末まで村高・領主とも変わらない(旧高旧領取調帳)。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一五二。


浜村
はまむら

[現在地名]松前町浜

寛文一一年(一六七一)に松前村から分郷した新村であるが、寛永初年の伊予一国図(大洲市加藤家蔵)にも、すでに「まさき浜」と記されている。松前海岸および港周辺の漁家を中心とした地域で、本村ほんむら組・新立しんだて組などの集落がある。

明暦四年(一六五八)八月、松山藩領浜村の漁民と大洲藩領米湊こみなと(現伊予市)の漁民との間で漁場争論を起こして乱闘となり、松山・大洲両藩の対立にまで及んだが、土佐藩主山内忠義の調停によって和義が成立した(伊予市の→米湊村


浜村
はまむら

[現在地名]倉敷市浜町はままち一―二丁目・北浜町きたはまちよう出町でちよう一―二丁目・幸町さいわいちよう美和みわ一―二丁目・昭和しようわ一―二丁目・阿知あち一丁目

倉敷村の北に位置し、北端を東西に鴨方かもがた往来が通る。「備中誌」は「往古は海辺にて、其後此辺地方と成し頃堤浜辺と成しより、浜とはいひし也」とし、「浜村庄屋に松山城主池田備中守殿水上賃の事を書きし状残りて有」ることを、長尾ながおからこの浜へ船の着いていた証とする。


浜村
はまむら

[現在地名]気高町浜村・北浜きたはま一―三丁目・新町しんまち二―三丁目

日光につこう村の西、浜村川(勝見川)の河口に位置する。北は日本海に面し、南は小谷こだに村。勝見かちみ谷の口にあたり、北部を伯耆街道が横断する。「因幡志」によると集落は伯耆街道から分岐して勝見谷を南下、鹿野しかの(現鹿野町)に通ずる道沿いに形成され、「漁農屯居」の村方であった。正保国絵図では「淀村」と記され、元禄国絵図作成の際浜村に改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。拝領高は二二〇石余、本免は五ツ四分。


浜村
はまむら

[現在地名]鶴見区浜一―五丁目・諸口もろくち四―五丁目・緑地公園りよくちこうえん安田やすだ三丁目・焼野やけの一丁目・茨田大宮まつたおおみや一丁目

茨田まんだ郡に属し、安田村の北西にある。西の村境を守口もりぐち(現守口市)方面からの守口井路が南下、東の村境近くをふる川が流れる。佐太さた(現守口市)方面からの道と守口方面からの道が北東部で合流して大坂へ向かい、合流点には天保九年(一八三八)大峯講社光明講建立の道標が建ち、集落もこの辺りにある。享保八年(一七二三)摂州榎並河州八個両荘之地図と「河内志」には「旧名浜治」と記される。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳では高七八六石余、幕府領、小物成として葭魚蓮年貢米九石。元文二年(一七三七)の河内国高帳では幕府領七三二石余と同新田二石余。


浜村
はまむら

[現在地名]根上町浜町・大成町たいせいまち大浜町おおはままち中町なかまち道林町どうりんまち

吉原釜屋よしはらがまや村の南の砂丘上に立地。西は日本海。浜十六町はまじゆうろくちよう村の高のうちで懸作していた塩士によって成立したとも(「郷村名義抄」加賀志徴)、越前の人々によって開かれたともいう(根上町史)。また下粟生しもあお(現川北町)からの分村との伝えもある(皇国地誌)。延宝七年(一六七九)に村御印が発給され、それによると高一一六石、免二ツ三歩、小物成は塩釜役(重住浦七一匁・開発浦二四九匁・高坂浦一一一匁)・網役一六六匁・猟船櫂役五七匁五分・塩運上七八八匁(根上町史)


浜村
はまむら

[現在地名]国東町浜

来浦くのうら村の東方に位置し、来浦川河口部に立地する。伊予灘に臨み、国東道が通る。「豊後国志」にみえる来浦浦が当地で、来浦浜村とも称した。「伊能忠敬測量日記」は来浦村枝郷とする。小倉藩元和人畜改帳に御蔵納分として浦手来浦村とみえ、高一一三石余で、家数四二のうち本百姓・小百姓一〇、隠居・名子・庭屋・牛屋など三二、男四三(うち名子二)・女二九、牛一〇・馬一。正保郷帳・元禄郷帳・天保郷帳では来浦村のうちで、旧高旧領取調帳では浜村四七〇石余。同帳に記すなか村は当村の南西方に位置し、高四三四石余で、明治四年(一八七一)当村に合併する。


浜村
はまむら

[現在地名]河津町浜

河津川河口の左岸付近に位置する。東は相模灘。もとは笹原ささはら村と一村であったが、寛永一〇年(一六三三)に分村した。そのため田地が錯綜しているという(増訂豆州志稿)。江戸時代は初めは幕府領、宝永五年(一七〇八)から延享四年(一七四七)まで相模小田原藩領、天明三年(一七八三)旗本鈴木・高木・田原三氏の相給、寛政五年(一七九三)幕府領、文政五年(一八二二)沼津藩と旗本鈴木氏の相給となり幕末に至る(「韮山町史」など)


浜村
はまむら

[現在地名]国頭村はま

現国頭村の南西端に位置し、西は東シナ海に臨む。集落は屋嘉比やはび(現在の田嘉里川)の河口右岸の砂丘上に形成されており(間切集成図など)、碁盤目状に区画されている。故地は屋嘉比やはび(現大宜味村)の近くにある森で、のち加名良原かならばるに移ったといわれ、さらに現在地に移転(国頭村史)。現在の集落南東にカナラガーとよばれる拝井泉があり(沖縄国頭の村落)、この地が加名良原にあたるとみられる。


浜村
はまむら

[現在地名]菊間町浜

高縄たかなわ半島の西部、菊間川河口付近に位置しいつき灘に面する。菊間郷では唯一の平野であり、同川の砂州の堆積が地名となったもの。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「菊間浜村 日損所、林少有、芝山有、小川有」とみえ、村高は九四七石二斗七升四合である。江戸時代を通じて松山藩領で、野間郡代官所の西月にしつき番所があり、別府べふ村以西の一二ヵ村を管轄した。


浜村
はまむら

[現在地名]城島町浜

内野うちの村の北、筑後川下流左岸とやま川右岸に挟まれて位置。筑後川の北対岸は下田しもだ村で、下田渡があった。本高は二二七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」によれば古高三〇〇石・役高四二九石余。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高四三一石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田一四町五反余・開田一〇町四反余・畑五反余・居屋敷三反余、ほかに七島(葭場)一反余。旧高旧領取調帳の高四二七石余。筑後川筋では当村と下田村・江島えしま村・浮島うきしま村・青木島あおきじま村など八ヵ村の漁者が時魚(エツ)漁を行った(啓忘録抜萃)。文化八年向島むかいじま(現大川市)の者が浜村下で蜆取をしていた時、肥前国の者から貝取道具を奪われる事件が起きた。


浜村
はまむら

[現在地名]東淀川区柴島くにじま一丁目、大淀区本庄西ほんじようにし三丁目・本庄東ほんじようひがし三丁目

南方みなみかた村の南東にあり、南を中津川が南流し、横関よこぜき渡がある。横関は当村字名。村名は当村が南方村の浜辺であったことに由来、また南方村より分村した村という(西成郡史)が不詳。「細川両家記」によると、天文一八年(一五四九)三月一日、当村辺りで三好長慶と細川晴賢・三好宗三の合戦があったという。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図では川口かわぐち(現淀川区)・南方村と合石で一千五五二石余、元和初年の摂津一国高御改帳では同じ三村で一千五八〇石余。


浜村
はまむら

[現在地名]真玉町 浜上はまかみ浜中はまなか浜下はましも

庄屋しようや村の北西方、真玉川下流にあり、周防灘に面する。川の対岸はおお村。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高二四〇石余で、家数一三一のうち本百姓・小百姓四七、隠居・名子・庭屋・牛屋八四、人数男一二九(うち名子三)・女九六、牛一九。正保郷帳では真玉庄に属し、田高二三石余・畑高一二四石余で、日損所、新田有と記す。元禄郷帳では高二〇四石余。享保二年(一七一七)の延岡藩領知目録写(牧野家文書)に村名がみえ、延享四年(一七四七)の延岡藩領郷村高帳(内藤家文書)では高一九〇石余、新田三〇石余。明治二年(一八六九)の竈数石高人別調帳(同文書)では高一九〇石余のほか新田八七石余とあり、うち男三〇石余・女五六石余と内訳が記載されているのが注目される。


浜村
はまのむら

千葉の南、小弓おゆみ館西麓の村。近世の千葉郡浜野はまの村一帯に比定される。連歌師宗長の「東路の津登」に「原宮内少輔胤隆、小弓の館のまへに浜の村の法華堂本行寺旅宿なり」とあり、この年永正六年(一五〇九)一〇月当地で何泊かしている。同八年日泰が浜村から藻原そうげん(現茂原市)に赴いており(「仏像伽藍記」藻原寺文書)、この間の道筋が想定できる。康正元年(一四五五)古河公方・上杉氏両派に分裂した下総千葉氏の抗争が起こると、美濃国の同一族東常縁は「浜式部少輔春利」を相具して下総へ下向し、古河方の馬加康胤・原胤房らと戦ったが、この浜春利なる者が酒井氏の祖「総州とけ(土気)とう(東)金先祖」という(鎌倉大草紙)


浜村
はまむら

[現在地名]出雲市浜町

古内藤こないと川と新内藤しんないとう川に挟まれ、東は八島やしま村・江田えた村、南は松寄下まつよりしも村。近世初期の菱根ひしね池干拓により新たに成立し、正保二年(一六四五)本村と認められたという(出雲市誌)。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一千一一一石余、寛文四年(一六六四)の本田高一千八八石余・新田高二一石余。「雲陽大数録」では高八一〇石。宝暦年間(一七五一―六四)井上恵助が砂丘であった浜山の植林に成功し、広い耕地が造成された(出雲市誌)。宝暦四年の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西一二町・南北一一町四〇間、田二五町・畑三四町八反、家数一一五・人数五五九、牛三七・馬六、大工三・木挽一・綿打一と記す。


浜村
はまむら

[現在地名]津奈木町岩城いわき

津奈木川の河口北岸の漁村で、東はなか村、西はとまり村に接する。寛永一八年(一六四一)の津奈木村小村切高物成人畜御帳(徳富文書)に「津奈木村内水夫村」と村名がみえ、高一四石五斗余、田数三反五畝余・畠数六反九畝余、女五五・男七四、うち小庄屋一・ろ手取(水夫)三六、船数一五(三枚帆より下、ただし破船とも)と記される。正保三年(一六四六)の津奈木内小村切人畜改御帳(同文書)には女七一・男九九、うち庄屋一・細工人(舟大工)二・水夫三五、船数二八(二枚三枚ノ猟舟)、ほかにちやうり家内五人(男二・女三)をあげる。


浜村
はまむら

[現在地名]尼崎市浜一―三丁目・常光寺じようこうじ一丁目・潮江しおえ一丁目・次屋つぎや一丁目・同四丁目・西川にしかわ二丁目

西川村の西に位置する。慶長国絵図に村名がみえ高四七一石余。正保郷帳では同高で、ほかに新田高一四石余。初め幕府領、元和三年(一六一七)尼崎藩領、寛永二〇年(一六四三)青山氏のとき分知により旗本青山(幸通系・幸正系)二家領となり、明治に至る(尼崎市史)。寛文九年(一六六九)頃の尼崎藩青山氏領地調(加藤家文書)では高四八六石余、うち二八〇石余は幸通系青山領、二〇五石余は幸正系青山領。


浜村
はまむら

[現在地名]豊中市浜一―四丁目

北条きたじよう村の南、小曾根おぞね村の西に位置し、小曾根村の枝郷(元禄郷帳)。村域は天竺てんじく川東岸に南北に長く延びる。中世は榎坂えさか郷小曾禰村に含まれ、鎌倉末期には奈良春日社領垂水西たるみのにし牧南郷(桜井郷・榎坂郷)目代今西氏が来住している。正長元年(一四二八)一一月日の南郷春日社新大般若会料田坪付帳(今西家文書)に浜村が小村として現れる。文禄三年(一五九四)の検地では高二九八石余(宝暦八年「村明細帳」今西家文書)。元和初年の摂津一国高御改帳では小曾根村一千八八五石余に含まれる。


浜村
はまむら

[現在地名]玉造町浜

霞ヶ浦沿岸にあり、北は八木蒔やきまき村、東は谷島やじま村。古くは玉造村と同村で、戦国期は箱根氏が村内箱根はこねに居住して支配したが、同氏は佐竹氏に滅ぼされ、佐竹氏領となり、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)には「高百五十八石八斗五升 此内廿一石弐斗七升六合 荒 定納廿四貫七百六十五文 皆納 川井大膳浜村」と記される。

江戸時代は水戸藩領で、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高五八〇石余とあり、ほかに新田一八石余が記される。「新編常陸国誌」によれば、元禄期(一六八八―一七〇四)以降は玉造浜村と称したが、天保年中(一八三〇―四四)に旧名に復したという。


浜村
はまむら

[現在地名]岡山市浜一―三丁目・西川原にしがわら一丁目

旭川の左岸に位置し、城下対岸の村。東は原尾島はらおじま村、南は国富くにとみ村、北は東川原ひがしがわら村・西川原村。枝村に小姓町・出屋敷がある(備陽記)。寛永備前国絵図に村名がみえ、高七一〇石余。「備陽記」によると田畑五〇町四反余、家数四二・人数二二七。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千五六石余、蔵入。田高七〇五石余・畑高一四九石余、家数三九・人数二〇七、牛一一、樋六、橋四五。


浜村
はまむら

[現在地名]大須賀町大渕おおぶち

東大谷ひがしおおや川の東方に位置し、西は藤塚ふじすか村源左衛門方、南は遠州灘に臨む。大浜おおはま村ともいう(遠淡海地志)。江戸前期は東の中新井なかあらい村を含んでいた。江戸時代の領主の変遷は西大淵にしおおぶち村と同じ。正保郷帳では浜中新井村とみえ、田方二七七石余・畑方一三五石余。元禄(一六八八―一七〇四)頃に中新井村を分村し、元禄郷帳では高二五七石余。


浜村
はまむら

[現在地名]矢部町浜町

千滝せんたき川と五老ごろうたき(轟川)に挟まれた盆地の西側にあたる村。東は浜町に接し、日向往還が東西に通る。正平九年(一三五四)八月一三日の肥後矢部郷村注文(阿蘇家文書)に「はま」とみえ、貫高は二貫五〇文。「浜」の地名は、阿蘇大宮司家の館名(→浜の館跡に由来する。「事蹟通考」に「按家伝曰、大宮司代々居宮地後黒川村贄塚城、又謂浜城家称浜館、故後於矢部猶呼其名」とある。慶長国絵図に村名がみえる。


浜村
はまむら

[現在地名]粟国村はま

粟国島の東部に位置し、西は八重えー村。島を構成する二村の一。「琉球国旧記」に粟国山(領邑二座)として浜村とみえる。ウーグとよばれる集落東部の海岸では砂丘が発達し、砂浜をなす。「球陽」尚敬王三二年(一七四四)条によると粟国島浜村前涯に鉄板石があり、あたかも石で地を打つ様な声を出し、また大雨を降らしたりするという。浜の港に面するクヮヌル(観音堂)の祠内に康熙三一年(一六九二)の紀年と「立春 花城光門」と刻された梵字碑が安置されている。


浜村
はまむら

[現在地名]大分市浜

別府湾に面し、集落は海岸線に沿って発達した幾条もの浜堤列上にある。政所まどころ村から東進した伊予街道が通る。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で関手永のうち。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高一七六石余。正保郷帳によれば田高一一三石余・畑高六三石余、大佐井おおざい郷に所属。


浜村
はまむら

[現在地名]岡山市西大寺浜さいだいじはま

川口かわぐち村の南西、吉井川左岸沿いの平地にあり、西は同川を挟んで西大寺村。寛永備前国絵図では高一千七一石余。「備陽記」によると田畑五九町四反余、家数一二六・人数六五五、小平太高瀬船(五端帆まで)一三、枝村に久富ひさとみをあげる。


浜村
はまむら

[現在地名]豊玉町

曾村の東に位置する同村枝郷。元禄一六年(一七〇三)対州郷村帳では曾村の内で、村名はみえないが、鎮守住吉社が祀られていた(貞享三年神社誌)。中世に一〇〇余戸を構えていたというのも(海東諸国紀)、当地の海民と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「浜村」の意味・わかりやすい解説

浜村[温泉]【はまむら】

気高(けたか)町(現・鳥取市)

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の浜村の言及

【気高[町]】より

…鳥取県東部,気高郡の町。1955年浜村町と宝木,酒津,瑞穂,逢坂の4村が合体,改称。人口1万0277(1995)。…

※「浜村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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