日本歴史地名大系 「内荒巻村」の解説
内荒巻村
うちあらまきむら
[現在地名]峰浜村内荒巻
東北は
慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「三百八拾九石五斗三升三合 荒巻村」とあるが、外荒巻村との合計高と思われる。黒印高帳(秋田県庁蔵)には、同八年に当村は一二六石余とある。正保四年(一六四七)の秋田檜山之内新蒔村御検地帳(内荒巻部落文書)では田畑屋敷合計一三町二段余、分米合計一三三石。村の大部分は多賀谷氏の知行地で、寛文四年(一六六四)に本田高一二七石余、開高一四石余であったが(多賀谷左兵衛知行目録)、文政九年(一八二六)には高一一三石余のうち九二石余が本田高で、八七石余が多賀谷氏の知行高となっていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報