山本郡
やまもとぐん
面積:九三九・九九平方キロ
八竜町・山本町・琴丘町・二ッ井町・藤里町・峰浜村・八森町
秋田県の西北部に位置し、郡の中央を東西に米代川が流れる。東は北秋田郡、南は南秋田郡、北は白神山地を境に青森県に接し、西は日本海に臨む。郡の西部中央に能代市がある。
郡の東部は北秋田郡境に沿うように、北から粕毛川を合わせた藤琴川、南からは田代川・濁川を合わせた内川が米代川に注ぎ、さらに粕毛川の西に種梅川が流れる。米代川の北の日本海寄り一帯には、白神山地から真瀬川・泊川・水沢川・塙川・竹生川が流出して日本海に注ぐ。郡の中央には米代川に注ぐ常盤川が流れ、常盤川から西は米代川沿いに平坦な台地が発達する。米代川の南の日本海寄り一帯は八郎潟に至るまで平地で、米代川北岸の平地とともに能代平野を形成する。また八森の南端から男鹿半島にかけての日本海沿岸は砂丘が発達し、みごとな砂防林が連なる。
山本郡は「羽陰史略」に「山本郡を仙北郡に仕、檜山郡を山本郡に仕、戸島郡を河辺郡に可仕候哉」とあるように、寛文四年(一六六四)まで檜山郡とよばれた。檜山郡は津軽安東氏の一族が檜山(現能代市)に拠点をもつようになってから、その支配領域を指してよぶようになったと思われる(→檜山郡)。
〔原始・古代〕
郡内の縄文遺跡は海岸からやや後退した台地上や、米代川両岸の段丘上に数多く分布する。時期は縄文前期から晩期までで、八竜町の萱刈沢貝塚からは中期の遺物・住居跡・フラスコ状ピットが発見され、人骨も出土している。また二ッ井町の烏野遺跡からは環状列石が発見され、麻生遺跡からは遮光型土偶に似た土面が出土している。弥生遺跡は数少ないが、峰浜村の栩木沢遺跡が知られる。
平安前期と推定される遺跡には峰浜村の中田面遺跡があり、土師器・須恵器片を出土し、住居跡も多数発見された。平安末期と推定される遺跡には同村の城土手遺跡があり、土師器・須恵器片が出土した。ほかに八森町の五輪台遺跡等からも土師器・須恵器片が出土している。
山本郡の地域が文献史料に現れるのは、斉明天皇四年に阿倍比羅夫が齶田から渟代へ北上したという「日本書紀」同年四月の記事が最初である。この時、比羅夫は渟代郡を置いたとされているが、その地域は現在の能代市域に包含されて、山本郡域には及ばなかったと思われる。
次いで文献に現れる山本郡域は、元慶二年(八七八)の蝦夷反乱(元慶の乱)の時である(「三代実録」同年七月一〇日条)。
山本郡
やまもとぐん
筑後国の北部西寄りに位置し、北から西は御井郡、南は上妻郡、東は竹野郡に接する。およその近世の郡域は現在の久留米市東部に相当する。
〔古代〕
郡名の初見は「延喜式」民部上まで下る。「和名抄」諸本に文字の異同はなく、東急本・元和古活字本は「也万毛止」の訓を付す。現久留米市草野町吉木字吉ノ尾付近は筑後国在国司草野永平の居館跡と伝えられるが、郡衙跡とも推定されている。「和名抄」には管郷として土師・蒲田・古見・三重・芝沢の五郷が載る。耳納山地北麓は条里地割の痕跡がきわめて良好に残存しており、山本郡およびその東に隣接する竹野郡、さらにその東に位置する生葉郡の三郡にわたる東西約二十数キロの範囲で大条里区が展開している。遺存する条里呼称に基づく遺称地名によって各郡の条里復元もなされており、条里施行地帯における郡境も推定されている。それによれば、山本郡は現田主丸町の西方で、境川より一〇〇―二〇〇メートル東側の地割線を竹野郡との境界としているとされる。
〔中世〕
山本郡一帯を本拠地とした草野氏は、肥前国の在庁官人高木氏の一族で、草野吉木(現久留米市)へ入部したという。平氏討伐にあたり勲功をあげた草野永平は、文治二年(一一八六)源頼朝の推挙により本職である筑後国在国司職・押領使職を安堵された。
山本郡
やまもとぐん
肥後国北部に位置し、東は合志郡、西は玉名郡、南は飽田郡、北は山鹿郡に接する。ほぼ今日の鹿本郡植木町の全域および鹿央町の一部(旧山内村)が郡域にあたる。「和名抄」東急本国郡部には「夜末毛止」と訓を付す。貞観元年(八五九)五月四日、合志郡の西部を分ち初めて山本郡が置かれた(三代実録)。郡家は正院の遺称をもつ正院村(現植木町)にあったと思われ、布目瓦の出土が確認されている。郡司については不明。「和名抄」は三重・高原・鳥田(高山寺本は鳥口)・山本・殖生・佐野・本井の七郷をあげる。高原郷には西海道主道の肥後第三の駅家高原駅があり、駅馬・伝馬各五疋が置かれていた(「延喜式」兵部省)。肥後国府から山鹿郡家への官道と玉名郡家への官道がここで分岐したものと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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