福井県東端の市。2005年11月1日旧大野市が和泉(いずみ)村を編入して成立した。人口3万5291(2010)。
大野市東部の旧村。旧大野郡所属。人口669(2005)。九頭竜川の最上流部に位置し,岐阜県に接する。村域の大部分を両白山地に属する山地が占め,中央を九頭竜川が貫流し,九頭竜ダム湖がある。1963年九頭竜川電源開発工事のため,旧上穴馬(かみあなま)村の全域と旧下穴馬村の長野・鷲両地域が湖底に沈み,66年には小谷堂(こたんどう)・三面(さつら)両地域が全戸移住し人口が激減した。各支川には大小六つのダムがある。西部には鉛,亜鉛を産出する中竜(なかたつ)鉱山があったが87年閉山し,その跡地にアドベンチャーランド中竜が開設された。九頭竜ダム湖,スキー場を中心に観光地化が進められている。小谷堂,角野前坂では縄文時代の竪穴住居跡が発見されている。九頭竜湖駅がJR越美北線の終点をなす。
執筆者:上田 雅子
大野市西部の旧市で,九頭竜川上流盆地の中心都市。1954年大野町と下庄町ほか上庄,乾側,小山,富田,阪谷,五箇の6村が合体,市制。人口3万7174(2005)。現市街は天正年間(1573-92)金森長近の亀山築城に始まり,1682年(天和2)以後は土井氏4万石の城下町として明治に至った。格子状の町割り,寺町などに旧景観を残している。街路中央に水路を通じて火災・積雪に備えた。清滝川旧扇状地の末端を占め,地下水が豊富で今もいたるところに清水(しようず)がみられ,炊事,洗濯などの生活用水となるが,近年は工場のくみ上げ過剰で井戸がれが起きている。近世からの絹織をつぐ機業が盛んで,昭和初めに人絹から化合繊にかわったが,近年は電気機器工業が発展している。JR越美北線が通じる。周辺農山村の産物を集散し,七間通りの朝市は名高く,特産に水引細工がある。専福寺大ケヤキ,アラレガコと本願清水のイトヨ生息地は天然記念物。
執筆者:島田 正彦
古代の大野は大沼,大山,毛屋,資母,出水の5郷から成る大野郡として出現する(《和名抄》)。天平1年(729)10月21日付の平城宮出土木簡に〈越前国大野郡調銭〉と見える郡名が最も早い。美濃と越前中原を結ぶ美濃道が走り,東海地方から初期真宗教団が伝わるなど,文化伝播(でんぱ)ルートとしても重要であった。当郡の開発は藤原氏によって行われ,平安末期には牛原,小山,泉などの諸荘園が立荘された。藤原成通の家領から安楽寿院に寄進されて成立した泉・小山両荘の領家職は春日社兼興福寺の領有するところとなったが,鎌倉期には早くも地頭に蚕食され,領家・地頭間に下地中分された。なお当郡は室町・戦国期を通じて郡司の支配が確認される特殊な地域であった。1575年越前一向一揆を平定した織田信長は,その武将金森長近を当郡に封じた。長近は亀山に城を築きその城下に当郡の中心都市大野を建設した。
執筆者:松原 信之 近世には城下町であり,福井から郡上(ぐじよう)に至る美濃街道の要地であった。1600年(慶長5)入封した結城秀康が支城とし,重臣土屋昌春を3万8000石で配置,24年(寛永1)秀康の三男松平直政が5万石を賜って大野藩が成立,82年土井利房が4万石で入国して定着した。正保郷帳では五つの枝郷ともで5087石余。町は亀山城(大野城)の東部に広がり,侍屋敷,町屋と続き,最東部に寺町を配した。町屋は東西・南北とも6条の道路を通して碁盤割りとし,南北の道路中央に清水といわれる用水を引いて,生活用水とし,冬季に除雪に利用した。整然とした町割りによって小京都の称がある。19世紀初め32の町がみられ,町政は町年寄,町組頭,月行司および庄屋がつかさどり,町口番所11,自身番が30ヵ所置かれた。鍛冶(19人ほど),酒造(33人ほど)が盛んで,とくに鍛冶は金森氏以来保護され,鍛冶庄屋・惣代がいた。戸口は18世紀末848軒・4924人であった。1889年の町村制で大野町となる。
→大野盆地
執筆者:隼田 嘉彦
茨城県南東部,鹿島郡の旧村。1995年鹿島町に編入されて市制,鹿嶋市となる。旧村域は東は鹿島灘,西は北浦に面し,中央に鹿島台地が広がる。台地上は平地林と畑,海岸や湖岸沿いの低地は水田となる。かつては米,麦などの生産が中心であったが,近年はハウス栽培のメロン,トマトや露地野菜が生産されている。北浦のワカサギ漁は衰え,現在はコイの養殖が盛ん。鹿島臨海工業地域の開発に伴って1970年ころから流入人口がふえた。鹿島灘に面する角折(つのおれ)は《文正草子》に記された〈つのをかが磯〉の地といわれ,古くから製塩の盛んな地で,文太長者屋敷跡がある。大小志崎海岸はハマナスの自生南限地(天)である。
執筆者:千葉 立也
岐阜県西部,揖斐(いび)郡の町。人口2万3859(2010)。町の西縁を揖斐川,東縁を根尾川が流れ,町の南端で合流する。両河川にV字形に挟まれた町で,町域の大部分は両河川の扇状地性沖積低地である。開発は古く,北部の野(の)地区には野古墳群(史)など多数の古墳群がある。古代は大野郡に属し,郡家の所在地は当町の郡家(ぐげ)に比定され,東山道の大野駅も当町に置かれたといわれる。上磯などの南部地区には条里制を示す地名や地割りが残っている。米作を中心に施設園芸,畜産が行われる。北部山地では石灰岩を産出,セメント工業が立地している。揖斐二度桜の古木は天然記念物,行基の開基といわれる来振寺の五大尊絵図は重要文化財に指定されている。
執筆者:上田 雅子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
福井県東部、九頭竜川(くずりゅうがわ)上流にある市。北西部の大野盆地を除く市域の80%以上が山林。1954年(昭和29)大野町を中心に下庄(しもしょう)町と上庄、乾側(いぬいかわ)、富田、小山(おやま)、阪谷、五箇(ごか)の6村が合併して市制施行。1970年西谷村を編入。2005年(平成17)大野郡和泉村(いずみむら)を編入。JR越美北線(えつみほくせん)が通じ、国道157号、158号、476号が走るほか、永平寺大野道路(中部縦貫自動車道の一部)の大野インターチェンジがある。旧大野町は南に古代の篠座(しのくら)神社、東に中世の土橋庄、西に戦国時代の戌山(いぬやま)城があったが、旧市街は1576年(天正4)金森長近(かなもりながちか)の大野(亀山)築城に始まり、1682年(天和2)以後土井氏4万石の城下町として明治を迎えた。格子(こうし)状の街路、寺町など旧景観を残し、街路中央には旧水路を通して火災、積雪に備えた。清滝川旧扇状地の末端を占め、地下水が豊富で、いまも清水(しょうず)とよばれる湧(わ)き水が生活用水となるが、工場のくみ上げすぎで井戸枯れがおきたこともある。近世の絹織を継ぐ機業は、人絹から化学・合成繊維に変わっている。周辺農山村の物資を集散し、七間(しちげん)通りの朝市は市民に新鮮な野菜を供給してにぎわい、特産に水引(みずひき)細工がある。専福寺の大ケヤキ、九頭竜川のアラレガコ(淡水魚のカジカの一種)生息地と本願清水のイトヨ生息地は国指定天然記念物。東部の火山泥流からなる六呂師(ろくろし)高原は放牧場で、キクの露地栽培も盛ん。また、スキー場、キャンプ場ともなっていて、福井県自然保護センターがある。ほかに鳩(はと)ヶ湯温泉、九頭竜峡、真名(まな)峡など観光地が多い。また、上打波(かみうちなみ)に伝わった「かんこ踊(神子おどり)」や巣原(すはら)の「平家踊」は県指定無形民俗文化財。面積872.43平方キロメートル、人口3万1286(2020)。
[島田正彦]
『『大野市史』全15巻(1978~2019・大野市)』▽『『大野のあゆみ』(1968・大野市)』
大分県南部、大野郡にあった旧町名(大野町(まち))。現在は豊後大野市(ぶんごおおのし)の北部にあたる地域。旧大野町は1928年(昭和3)町制施行。2005年(平成17)三重(みえ)町、清川(きよかわ)村、緒方(おがた)町、朝地(あさじ)町、千歳(ちとせ)村、犬飼(いぬかい)町と合併して市制施行、豊後大野市となった。国道57号が通じる。広い阿蘇(あそ)溶結凝灰岩台地はサツマイモ、採種用ダイコン、葉タバコ作で知られる。台地を刻む大野川の支流、茜(あかね)川、柴北(しばきた)川、田代(たしろ)川の沖積低地のほかは水田に恵まれず、肉用牛の飼育が盛んである。1975年(昭和50)完成の師田原(しだわら)ダムは畑地灌漑(かんがい)が目的で、野菜産地を期待している。クヌギ林も広く、シイタケの産が多い。おもに農産物を首都圏へ空輸するために大分県央飛行場が1992年(平成4)に開港した。烏帽子(えぼし)岳中腹の浄水寺のボタンザクラは4月中旬に花見客が多い。
[兼子俊一]
『『大分県大野町史』(1980・大野町)』
北海道南西部、渡島(おしま)支庁(現、渡島総合振興局)にあった旧町名(大野町(ちょう))。現在は北斗(ほくと)市の北東部を占める地域。旧大野町は1880年(明治13)戸長役場設置、1957年(昭和32)町制施行。2006年(平成18)、上磯(かみいそ)郡上磯町と合併して市制施行、北斗市となる。旧町域内をJR函館本線、国道227号が通じる。大野川の沖積地函館平野(大野平野)は大野灌漑(かんがい)排水事業が進み道南有数の穀倉地帯。文月(ふみづき)には北海道水田発祥の地として元禄(げんろく)5年(1692)開田の記念碑がある。稲作のほか、ハクサイ、トマト、ジャガイモなどの野菜生産、肉牛を主とする畜産が行われる。
[瀬川秀良]
『『大野町史』(1970・大野町)』
岐阜県南西部、揖斐郡(いびぐん)にある町。1932年(昭和7)町制施行。1954年(昭和29)豊木(とよき)、富秋(とみあき)、西郡(さいぐん)の3村と合併、1956年鶯(うぐいす)村、1960年川合(かわい)村を編入。揖斐川と根尾川に挟まれ、逆三角形状をなす。中心の町並みは、名古屋鉄道揖斐、谷汲(たにぐみ)両線(2001年に谷汲線、2005年に揖斐線が廃止されともにバス転換)の分岐点であった旧黒野駅付近に商業地として発達したが、宅地化も進み岐阜などへの通勤者が増加している。国道303号が町のほぼ中央を横断する。黒野の北西方の野(の)古墳群は国指定史跡であり、南方(みなみがた)の「揖斐二度ザクラ」は国指定天然記念物。西方(にしがた)の牧村家住宅は国指定重要文化財。特産物に富有ガキ、バラ苗がある。面積34.20平方キロメートル、人口2万2041(2020)。
[上島正徳]
『『大野町誌』(1967・大野町)』
広島県西部、佐伯郡(さえきぐん)にあった旧町名(大野町(ちょう))。現在は廿日市市(はつかいちし)の一地区。広島湾に面し、大野瀬戸を隔てて日本三景の一つ宮島(みやじま)(厳島(いつくしま))に対する。旧大野町は1950年(昭和25)町制施行。2005年(平成17)廿日市市に編入。海岸沿いにJR山陽本線、広島電鉄宮島線、国道2号が走り、広島岩国道路の大野インターチェンジがある。宮島口桟橋からはJRのフェリーがあって、厳島への門戸としてにぎわう。大竹(おおたけ)市との境の旧山陽道の四十八坂は1866年(慶応2)長州軍と幕府軍が戦った所。広島市の近郊として住宅化が進んでいる。旧町域北部の山地にはベニマンサクの群落(県天然記念物)がある。
[北川建次]
『『広島県大野町誌』(1992・大野町)』
茨城県南東部、鹿島郡(かしまぐん)にあった旧村名(大野村(むら))。現在は鹿嶋市の北部を占める一地区。旧大野村は1995年(平成7)鹿島町に編入(鹿島町は鹿嶋町に名称変更して市制施行)。東は鹿島灘(なだ)(太平洋)、西は北浦に臨む鹿島台地にあり、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、国道51号が通じる。農業が主で米、いも類、ラッカセイ、ミツバ、ゴボウの産が多い。近年、鹿島臨海工業地域へ勤める者が増加した。旧村域の北端はハマナス自生南限地帯(国指定天然記念物)として知られる。
[櫻井明俊]
岩手県北東部、九戸郡(くのへぐん)にあった旧村名(大野村(むら))。現在は洋野(ひろの)町の南部を占める地域。2006年(平成18)同郡種市町(たねいちまち)と合併して洋野町となった。九戸高原の中心部にあり、なだらかな丘陵が広がる。酪農業が発達し、大野畜産公社模範牧場などがある。ブロイラー生産も活発。東北工業大学の指導によって木工での村おこしが進められ、木材資源を利用した多品種小量生産の家内工業が注目されている。
[川本忠平]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…人口2万3605(1995)。越後平野中部の信濃川西岸にあり,中心地大野は中ノ口川との合流点にあたる古くからの河岸町で,近世中期以降は市場が栄え,近郷の農産物の集散地として発達した。かつては潟湖の多い低湿地で,洪水の常襲地帯であったが,近世末期に新川排水路が開削され,1922年には上流に大河津分水が完成して乾田化が進み,越後平野の中核的穀倉地帯となった。…
…愛知県西部,知多半島の西岸中央部にあって伊勢湾に面する窯業都市。1954年常滑,鬼崎,西浦,大野の4町と三和村が合体,市制。人口5万0854(1995)。…
…越前国大野郡(現,大野市)の醍醐寺領荘園。荘域は南・北・中夾・庄林の4ヵ所から成り,総田数460余町,年貢500石であった。…
※「大野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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