出雲荘(読み)いずものしょう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「出雲荘」の意味・わかりやすい解説

出雲荘
いずものしょう

大和(やまと)国城上(しきのかみ)郡(奈良県桜井市大字江包(えつつみ)、大西付近)の興福寺領荘園。1070年(延久2)には21町余(1町は約119アール)の雑役免田畠(ぞうえきめんでんばた)にすぎず、この段階ではまだ基本的には国衙(こくが)領であった。延久(えんきゅう)以後のいつごろかに興福寺大乗院(だいじょういん)の一円荘園になり、鎌倉時代にいわゆる均等名(きんとうみょう)荘園としてその姿を現す。1186年(文治2)の坪付(つぼつけ)帳によると総面積は32町余で、そのうち22町余の田畠が1町余から2町までのほぼ均等な16の名(みょう)に分割、編成されていた。各名には原則として1反の屋敷地が認められていた。14世紀初頭には3名減って13名になっており、以後戦国時代まで13名制が維持されたようである。大乗院の根本所領12か所の一つ。

[安田次郎]

『渡辺澄夫著『増訂 畿内庄園の基礎構造』(1969・吉川弘文館)』『島田次郎著「畿内荘園における中世村落」(『日本社会経済史研究 古代中世編』所収・1967・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「出雲荘」の意味・わかりやすい解説

出雲荘 (いずものしょう)

大和国城上郡(現,奈良県桜井市の北西部)にあった荘園。まず興福寺雑役免荘の一つとして1070年(延久2)の坪付帳にその名がみえる。総面積21町3反半で,荘田は散在形式を示している。鎌倉時代にはこの地域に,興福寺大乗院の重色所領の一つ出雲荘が成立していた。この荘園は1186年(文治2)の坪付帳によると総面積32町2反余で,荘田は4ヵ所に分散するが,雑役免荘の段階より円田化された形をとっている。のち一色田である間田11町2反280歩が加わり総面積は43町5反となる。したがって荘田は,名田部分と佃,給田等の除田部分とのちに加わった間田(名田以外の無主地)部分とからなっていた。名田部分は2町から1町余のほぼ均等な16名からなり,反別6斗前後の年貢と種々の公事を負担していた。間田の年貢は名田とほとんど差はなかった。荘官として預所,下司,公文,職事などが置かれており,室町後期には大乗院方の国民(春日社末社の神人)がこれらの荘官となり在地を支配していた。
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