大乗院(読み)ダイジョウイン

デジタル大辞泉 「大乗院」の意味・読み・例文・類語

だいじょう‐いん〔‐ヰン〕【大乗院】

奈良興福寺門跡。寛治元年(1087)隆禅開創。代々摂関家の子弟が入り、一乗院と交互に興福寺別当職に就いた。明治維新後に廃絶

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精選版 日本国語大辞典 「大乗院」の意味・読み・例文・類語

だいじょう‐いん‥ヰン【大乗院】

  1. 奈良市高畑町の興福寺にあった門跡寺。三箇院の一つ。寛治元年(一〇八七)隆禅が創建。関白藤原師実の子尋範以来摂関家の子弟が門主となり、歴代、興福寺別当を一乗院(門跡)と交互に兼ねた。明治維新後に廃絶。多数文書(大乗院文書)が残されている。

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日本歴史地名大系 「大乗院」の解説

大乗院
だいじよういん

[現在地名]高野町高野山

高室たかむろ院に名跡が残り、準別格本山。古くは本中院ほんちゆういん谷の現総持そうじ院の南にあり学侶方の一院であったが、明治以降みなみ谷の現浄菩提じようぼだい院の南に移り、のち高室院に名跡が移された。「諸院家析負輯」によれば開基は大乗房証印、文明五年(一四七三)の諸院家帳には「性本房隆算建立」とあるが、隆算を析負輯は四代としている。証印は覚鑁の弟子で大伝法だいでんぼう院の学頭となり、文治三年(一一八七)八三歳で没した。


大乗院
だいじよういん

[現在地名]佐川町丙

川内こうちたににある天台宗寺門派の寺。本尊薬師如来。中世に医王山大願寺と称していた修験宗寺院を明治以降に大乗院として再興したもの。大願寺は天正一八年(一五九〇)の佐川郷地検帳に二反六代余の「大願寺寺中」と若干の扣地が確認される。江戸時代にはすでに退転し(南路志)、「土佐州郡志」にも薬師堂として「在本村西、本尊及十二神・観音皆安阿弥之所刻」と記す。

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改訂新版 世界大百科事典 「大乗院」の意味・わかりやすい解説

大乗院 (だいじょういん)

奈良興福寺の門跡寺院。奈良公園荒池の南方,鬼園山の南にあった。現今は大乗院池をのこして廃寺となっている。1087年(寛治1)藤原政兼の子隆禅が先考の菩提を祈るため一乗院の東方に創建。関白師実の子尋範の入院以来摂関家の子弟が入り,一乗院,喜多院とともに興福寺院家(いんげ)の上位に位した。1180年(治承4)平重衡の兵火で焼亡し,のち元興寺の別院禅定院のあった地に移った。鎌倉時代には堂3宇,塔1基などを池畔に配し,白河法皇寄進の越前国河口荘をはじめ多数の荘園をもち,一乗院とともに興福寺別当職や金峯山検校,長谷寺別当を兼職する僧が多く輩出した。興福寺の主導権を一乗院と争い,ときに両院家の間に武力闘争が行われた。1434年(永享6)遣明船派遣のために院領48ヵ所に段銭を課したことから荘民が蜂起し,51年(宝徳3)の土一揆で焼失した。その復興にあたっては,善阿弥作庭の園池や殿舎が以前にまして結構をきわめたし,油座,檜物座,漆座など多数の大乗院座を支配し,中市を経営して院家修造や院家の入費を計るなど経営の才を発揮した。しかし,戦国大名による領国成立によって寺領の破綻をきたし,1580年(天正8)織田信長に提出した院家の石高は950石,江戸幕府も美濃荘(大和)951石余を朱印寺領として与えた。明治維新の廃仏毀釈と上地により,院主は還俗(げんぞく)して松園氏を称した。《大乗院寺社雑事記》をはじめ,多くの大乗院文書が残されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大乗院」の意味・わかりやすい解説

大乗院
だいじょういん

寛治1 (1087) 年2月に権大僧都隆禅によって創建された奈良興福寺の門跡寺。摂政藤原師実の子尋範の入室以来,摂関家 (→摂家 ) の子弟が門主となり一乗院と並んで,興福寺別当に任じられた。中世には多数の荘園を有し,衆徒,国民を支配し,一乗院とともに大和国守護職として勢威をふるった。江戸時代になるとその勢力は寺内だけにとどまり,寺領 914石となった。明治の廃仏毀釈に際し,60世門主尚嘉は還俗して華族に列せられ,院は廃止された。寺地は興福寺菩提院の南にあり,庭園が有名であった。中世史料として貴重な記録,古文書を多数有し,その大部分は国立公文書館に所蔵されている (→大乗院寺社雑事記 , 経覚私要鈔 ) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大乗院」の意味・わかりやすい解説

大乗院
だいじょういん

興福寺を代表する門跡(もんぜき)。奈良市高畑町に旧跡がある。隆禅法印(りゅうぜんほういん)によって1087年(寛治元)に創設された。3代目の関白藤原師実(もろざね)の子尋範(じんはん)より摂関家の子弟が入室して発展。鎌倉時代、九条家や一条家出身の門主は禅定(ぜんじょう)院や龍華樹(りゅうげじゅ)院等の院主を兼帯し、長谷寺(はせでら)・永久(えいきゅう)寺などの末寺、荘園、寺僧、坊人(ぼうにん)、各種の商工業座などを支配して、一乗院と並ぶ大勢力を形成した。室町時代以降、しだいに衰退。近世には朱印地951石を有する門跡として存続したが、明治維新後、門主が還俗(げんぞく)したことによって廃絶した。

[稲葉伸道]

『永島福太郎著『奈良文化の伝流』(1951・目黒書店)』

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世界大百科事典(旧版)内の大乗院の言及

【尋尊】より

…室町時代の興福寺僧で,大乗院門跡(もんぜき)。関白一条兼良(かねら)の第5子。…

【符坂油座】より

…中世,符坂の地(現,奈良市油阪町付近)を中心に,興福寺大乗院に保護されて繁栄した油座。この座衆は大乗院門跡に奉仕する寄人と春日社若宮の神木帰座などに従事する白人神人(はくじんじにん)の身分を兼ね,すでに鎌倉時代から特権的営業を認められていた。…

【大和国】より

…ここで春日社興福寺を盟主とする大小社寺の領主連合組織が完成,治外法権の社寺王国(宗教王国)大和が出現した。興福寺の独走には東大寺や多武峰(とうのみね)(天台宗延暦寺末寺)が不満であり,やがて新興地侍らが将軍家御家人(地頭)あるいは悪党として反体制活動を始めたり,興福寺の一乗院大乗院両門跡の対立抗争が生ずるにいたった。しかし,社寺王国化にともない,南都仏教が復興,社寺の修造や復旧が進んだ。…

※「大乗院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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