日本歴史地名大系 「加江田村」の解説 加江田村かえだむら 宮崎県:宮崎市加江田村[現在地名]宮崎市加江田・学園木花台西(がくえんきばなだいにし)・学園木花台南(がくえんきばなだいみなみ)・学園木花台桜(がくえんきばなだいさくら)鏡洲(かがみず)村の東に位置し、加江田川が北部を東流し日向灘へ注ぐ。海江田とも記し、那珂郡に属した。鵜戸(うど)街道が通り、加江田川には天神渡がある。南東は当村の枝村折生迫(おりゆうざこ)村、南は同じく内海(うちうみ)村。万勤書(山之城家文書)には折生迫・大内海(おおうちうみ)・野島(のしま)・小内海(こうちうみ)は下加江田村の内とあり、当村は上・下に分けて把握されることもあった。元禄国絵図には「加江田村之内」として紫波洲崎(しわすざき)村がみえる。鎌倉時代には八条女院領国富(くどみ)庄に含まれ、宮崎郡に属していた。室町時代以降はほぼ伊東氏の支配下にあった。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳には那珂郡に加江田上下八〇町、天正一六年八月五日の日向国知行方目録には加江田八〇町とみえ、伊東祐兵に宛行われている。以後幕末まで伊東氏(飫肥藩)領であった。慶長五年(一六〇〇)一〇月、大坂から下国した伊東祐兵の家臣平川分右衛門らは島津勢との合戦のため加江田衆など三〇五人を召集して宮崎城周辺に立籠っている(日向記)。検地古今目録(日向国史)によると、慶長一〇年の高四千六七石余・反別四四三町余で、「内海折生迫入」と注記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by