橘三喜(読み)たちばなみつよし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「橘三喜」の意味・わかりやすい解説

橘三喜
たちばなみつよし
(1635―1703)

江戸前期の神道(しんとう)家。橘神道の唱導者。寛永(かんえい)12年肥前国平戸(ひらど)(現、長崎県平戸市)に生まれ、為証庵と号す。神道を吉田家(唯一神道)門人の駿河(するが)国府中浅間(せんげん)神社祠官(しかん)宮内昌興(みやうちまさおき)(志賀昌興。?―1671)に学び、江戸浅草の平戸藩邸付近に居住し神道の弘布(こうふ)に努めた。1675年(延宝3)郷里平戸より諸国一宮(いちのみや)の巡拝出立、各地で神書を講説、1697年(元禄10)江戸浅草に戻ったが、この間の紀行文が『一宮巡詣記(じゅんけいき)』である。新潟県長岡市鎮座・蒼紫(あおし)神社(祭神は長岡藩3代藩主牧野忠辰(まきのただとき)(1665―1722))境内には三喜を祀(まつ)る一樹(いちじゅ)神社(死後吉田家から一樹霊舎の神号を贈られる)があり、長岡藩にも滞留・講説したことが知られる。別に『中臣祓(なかとみのはらえ)集説』『神道四品(しほん)縁起』などの著書がある。元禄(げんろく)16年没、69歳。

[土岐昌訓 2017年10月19日]

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朝日日本歴史人物事典 「橘三喜」の解説

橘三喜

没年:元禄16.3.7(1703.4.22)
生年:寛永12(1635)
江戸前期の神道家。生まれは肥前国(長崎県)平戸,江戸に出て活動した。吉田神道家宮内昌興および吉川神道家吉川惟足の教えを受け,江戸浅草に住して橘神道を創唱した。本名は光義で美津与志とも記す。号は為証庵,陰陽山一本院。その交友に神道学者増穂残口などがおり,弟子の武蔵国氷川神社(埼玉県)神主武笠丹波は鎌を神体とみたて巡行を行う弓矢神道を興した。武蔵国足立郡三室郷向山(上尾市)に葬られた。<著作>『一宮巡詣記』『秋津真言葉』『中臣祓集説』『神道四品縁起』<参考文献>梅田義彦「橘三喜が諸国一宮へ奉納したる中臣祓」(『神道の思想』3巻)

(白山芳太郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橘三喜」の解説

橘三喜 たちばな-みつよし

1635-1703 江戸時代前期の神道家。
寛永12年生まれ。駿河(するが)(静岡県)総社神部神社の神職志貴昌興(しき-まさおき)に吉田神道をまなび,江戸浅草で橘神道をひらく。諸国の一宮(いちのみや)を巡拝し「一宮巡詣記」をあらわした。元禄(げんろく)16年3月7日死去。69歳。肥前平戸(長崎県)出身。号は為証庵。著作はほかに「中臣祓(なかとみのはらえ)集説」「神道四品(しほん)縁起」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「橘三喜」の意味・わかりやすい解説

橘三喜
たちばなみつよし

[生]寛永12(1635).肥前,平戸
[没]元禄16(1703)
江戸時代中期の神道家。号は為証庵。神道を宮内昌興に学び,京都に上り吉田神道の伝授を受けた。のち江戸浅草に出て,唯一宗源の大導師と号して,橘神道を開いた。主著『諸国一宮巡詣記』『神道四品縁起』『中臣祓集説』。

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