江田村(読み)えたむら

日本歴史地名大系 「江田村」の解説

江田村
えたむら

[現在地名]菊水町江田

西境を菊池川が南流し、南部を流れる江田川を南西で合する。東は用木もといぎ村、南は白石しらいし村・うけ村、北は原口はるぐち村と接する。「延喜式」(兵部省)にみえる江田駅、「和名抄」の江田郷は当地に比定され、江田駅は肥後国内の他駅と同様に駅馬五疋・伝馬五疋を置いた。元亨元年(一三二一)三月三日の阿蘇社進納物注文写(阿蘇家文書)の国中初米進納所々に権大宮司請取分として「ゑた」があり、田作祭料に充てられている。一四世紀中頃と推定される相良定頼并一族等所領注文(相良家文書)に山田左衛門次郎分として「江田村田地弐拾町江田太郎跡」がみえる。天正一四年(一五八六)八月二日、立花宗茂を攻めた帰路に上井覚兼島津義弘の使僧と当地で会っている(「覚兼日記」同日条)


江田村
えだむら

[現在地名]宮崎市阿波岐原町あわきがはらちよう

山崎やまさき村の南にあり、東は日向灘に面する。「和名抄」に記載される宮崎郡江田郷の遺称地。永正一四年(一五一七)六月六日の荒武宗名給恩分注文(荒武文書)に江田公文分三町三段小三〇歩とみえる。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)によると、妻万つま(現西都市都萬神社)領代官格護分として江田の内に四反があった。天正一一年(一五八三)六月三日、宮崎城主上井覚兼は当地で出される網船を見物するため新別府しんびゆうへ赴き、翌日江田・新別府の漁船がことごとく出漁し渚に魚を引寄せるのを浜辺で見物している。


江田村
えだむら

[現在地名]福野町江田

たび川の両岸に位置し、東は三清さんきよ村、南は安清やすきよ村。元和三年(一六一七)の江田村新開検地打渡状(片山家文書)があり、検地高は一石余。同五年の家高新帳では役家数四。正保二年(一六四五)十村肝煎であった当村の次郎兵衛は給人奥村源左衛門から田屋たや村の一三石余の年貢米を預けられている(「年貢米預状」片山家文書)正保郷帳では高三二〇石余、田方一九町余・畑方二町三反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三九三石、免五ツ七歩(三箇国高物成帳)。享保一三年(一七二八)の検地引高六六石余などにより天保一〇年(一八三九)の高三三一石余(「高物成帳」菊池家文書)。所属組は八塚やつづか村と同じ。


江田村
えだむら

[現在地名]小松島市江田町

中郷なかのごう村の北西に位置し、西部を勝浦かつうら川が北流する。近世は勝浦郡のうち。慶長年間(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「ゑだ」、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「えだ村」と記される。勝浦川筋の向江田むかいえだは寛永頃に同川の付替えを行ったため(二月八日「蜂須賀蓬庵書状」蜂須賀家文書)、東西に分断されたという。寛永五年勝浦山の杉・檜ほか諸材木にかかわる江田村分一が良喜入道・江田丿勝兵衛に申付けられている(「阿淡年表秘録」など)


江田村
えたむら

[現在地名]御調町江田

国守くにもり村の北に位置し、御調川の支流江国えぐに川沿いに展開する山村。東は山地ですげ村、西は山地でいち村に接する。「芸藩通志」によると、灌漑用水は不足とある。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳ではうしかわ村に含まれる。「国郡志下調書出帳」によると、寛永一五年(一六三八)の地詰帳では菅・菅山方すげやまかた平木ひらぎ・江田の四ヵ村を一村とし、菅組すげぐみ村と称している。旧版「広島県史」所収の正徳(一七一一―一六)頃の記録に村名がみえ、高一七二・八八六石。広島藩蔵入地。「芸藩通志」には、畝数一四町九反余、戸数三六・人口一六四、牛一八・馬一五、神社に竹宮天王たけのみやてんのう社があると記す。


江田村
えだむら

[現在地名]館山市江田

竹原たけわら村の北西に位置し、山名やまな川の左岸に展開する。川に沿った耕地には古代の条里の遺構がみられた。その東方台地上に集落がある。天正一七年(一五八九)九月一日の里見義康知行宛行状(石井一夫氏所蔵文書)で石井駿河守に「長狭野尻之給并江田之本給之上ニ於神余之郷田地拾貫代」を安堵している。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高三六五石余(うち田三一五石余)とあり、同一五年の里見家分限帳によると里見氏直轄領。正保郷帳では高三八四石余(うち田三三〇石余)、北条藩領。享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では旗本小笠原領。


江田村
えだむら

[現在地名]信楽町江田・西にし

長野ながの村の南にあり、小丘上に集落を形成する。南方神山こうやま村の出郷として成立したともいう。中世は信楽庄に含まれ、「後法興院記」応仁二年(一四六八)八月二二日条によれば、江田郷などの沙汰人百姓が下向していた近衛政家に酒を進上した。同書文明一三年(一四八一)六月一六日条に、同郷の材木五本が到着したとある。寛永石高帳では高五三三石余、旗本多羅尾領。元禄郷帳では高五四五石余、旗本大久保領を加え二給。天明村高帳では丹後宮津藩領と旗本多羅尾領。天保八年郷帳に江田村の内として西村がみえる。


江田村
えだむら

[現在地名]前橋市江田町

西は中尾なかお(現高崎市)鳥羽とりば村、北は元総社もとそうじや村、東は古市ふるいち村・箱田はこだ村、南は新保田中しんぼたなか(現高崎市)。元和五年(一六一九)安藤対馬守殿御領分高覚帳(東大史料編纂所蔵)では、高四九三石七斗余、その内訳は田方二二町九反余・畑方一九町二反余で、高崎藩領であった。正徳年間(一七一一―一六)の植野堰最初掘立御普請書(武井文書)では、全村高が植野うえの堰の用水を受けている。寛延二年(一七四九)まで高崎宿の加助郷を負担していたが、同年前橋藩領となって加助郷は中止、しかし天明二年(一七八二)再び加助郷が復活している(更正高崎旧事記)


江田村
えたむら

[現在地名]出雲市江田町

古内藤こないと川が流れ、北は常松つねまつ村、東は堀江ほりえ村。近世初期の菱根ひしね池干拓により新たに成立した。元和二年(一六一六)に成立し、正保二年(一六四五)本村と認められたというが(出雲市誌)正保国絵図には村名がみえない。村名は神立かんだち(現斐川町)より百姓江田平右衛が移住したためという(高浜村誌)。元禄十年出雲国郷帳では高六三一石余、寛文四年(一六六四)の本田高六〇五石余・新田高二四石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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