北久太郎町二丁目(読み)きたきゆうたろうまちにちようめ

日本歴史地名大系 「北久太郎町二丁目」の解説

北久太郎町二丁目
きたきゆうたろうまちにちようめ

[現在地名]東区北久太郎町一―二丁目・船場中央せんばちゆうおう二丁目

北久太郎町一丁目の西にあり、一丁目筋より八百屋町やおやまち筋を経てさかい筋まで。町名は明暦元年(一六五五)水帳奥書写(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)にみえる。大坂三郷南組に属し、元禄一三年(一七〇〇)の三郷水帳寄帳では屋敷数四九・役数五二役で、うち年寄分・会所分各一役が無役。年寄は薄屋弥左衛門。安政三年(一八五六)には屋敷数四二・役数五二役で、うち年寄分・会所分各一役が無役(前掲水帳)。人数は延宝四年(一六七六)には六〇五、うち町人とその家族は一四九(三五戸)、借屋人は二二六人、下人・下女は二二九人であった(ただし合計数合わず)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む