( 1 )仏に花を供える習慣は古くからあったが、鎌倉時代には供花の方法も次第に形式化し、仏像の左右に花を直立させた花瓶を置いたり、三具足の一として配置されたりするようになった。中心となる花・木を直立させる立花の様式はこれに基づくといわれる。室町時代には観賞用として花を飾ることもさかんになり、様式化が進んだ。
( 2 )「立花」をリッカと読んで特定の様式をさすようになるのは、池坊専好の登場によってである。
いけ花様式の一つ。立華とも書く。その立てる形式から初期は「たてはな」とよばれたが、様式の整備とともに「りっか」と呼称されるようになった。その初見は1683年(天和3)刊の『立花大全(だいぜん)』で、このなかで立花は、心(しん)、正心(しょうしん)、副(そえ)、請(うけ)、見越(みこし)、流枝(ながし)、前置(まえおき)の七つ道具、すなわち基本となる役枝(やくえだ)が明確に規定され定型化した。この形式は室町時代、15世紀末から座敷飾りとして発展した「たてはな」を、江戸初期のいけ花の名手として知られる池坊専好(いけのぼうせんこう)(2代)が寛永(かんえい)(1624~44)ごろ大成したものである。立花は自然のありのままをいけるものではなく、それを象徴化することにより理想の世界を具現しようとするもので、2代目専好は『立花口伝書(くでんしょ)』に「立華の実躰(じったい)というのは、須弥山(しゅみせん)に標(しる)し、七種の枝葉を以(もっ)て、世界の山野水辺をあらわす」と述べている。そして「円正な形であらわし」というように、心を中心にほかの役枝が調和均衡よく配置され、それを統一的に球状にまとめた姿をよしとする。立花は元禄(げんろく)期(1688~1704)に隆盛を極めたが、七つ道具を不可欠な構成要素とするところから固定化し、これに繁雑な形式も加わって豪華な形式のものとなり、当時のはで好みの富裕な町人層に迎えられた。こうしたところから人為的要素が強くなり、当初の自然のままの花材を使う「生(う)ぶ立て」から花材を型にあわせるための技巧的な「幹(みき)づくり」の手法に進み定型化に拍車をかけ、その創造的な生命感を失い古典化したが、伝統的な洗練された造形表現には今日もなお学ぶべき多くのものがある。
[北條明直]
福岡県南端、八女郡(やめぐん)にあった旧町名(立花町(まち))。現在は八女市の南西部を占める地域。旧立花町は、1955年(昭和30)光友(みつとも)、北山(きたやま)、白木(しらき)、辺春(へばる)の4村が合併して町制施行。2010年(平成22)、黒木(くろぎ)町、矢部(やべ)村、星野(ほしの)村とともに八女市へ編入。古生層からなる県境の筑肥(ちくひ)山地の北斜面が広がり、旧町域の北端に矢部川中流左岸の狭い沖積低地がある。国道3号が小栗(おぐり)峠を越えて熊本県に通じる。主産業は農業で、米麦のほか、ミカン、キウイフルーツ、タケノコ、茶、ウメなどを産し、とくにミカンは元禄(げんろく)年間(1688~1704)に起源をもつ県内屈指の生産地であり、町名も橘(たちばな)にちなんでつけられた。兼松(かねまつ)集落には缶詰工場が立地している。辺春川上流はゲンジボタルの里として知られ、飛形(とびかた)山(450メートル)からの眺めはすばらしい。
[石黒正紀]
『『立花町史』(1996・立花町)』
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いけばな様式の一つ。立華とも書く。花道成立以前から行われていた花,草,木を花瓶に〈立てる〉形式から,古くは〈たてはな〉と呼ばれ,室町時代には定式化した。成立当初の〈立花(たてはな)〉の形式と目的は,室内を飾り,それを眺め楽しむということであった。1490年ころになると,花瓶に〈立て〉られる種々の草木のうち,その中心となるものを〈しん〉(心,身,真)と呼び,それに添えるものを〈下草〉と呼んで,それぞれの約則名によって立てられるようになった。それがいわゆる立花(たてはな)様式の誕生になる。立花の基本的形式は,座敷飾が成立する過程の上で完成されている。座敷を荘厳にして飾る役目をはたす立花は,花を立てる人間のより美しく見せようとする作意がつのり,またそのために技法の洗練へと進み,さらにそれに相応した理論の形成や種々の法則と心得などの成立を要因として,近世に至り新しい立花(りつか)の新生をみた。立花の大成は元和から寛文までの間(1615-61)と考えられ,それが普及し爛熟した時代は貞享から元禄(1684-1704)ころの時期である。当時の立花は,それを描写した花形絵の現存によって知られる。花形絵は,《古今立花集》(1671)がその初刊であり,以後,《立花大全(古今立花大全)》など,立花の秘伝を公にした花伝書が続いて刊行された。時代によって,立花の形姿をこしらえる技法上の法則は同一ではないが,天然の気を一つの花瓶に写す象徴的表現は,表現技巧の極致であるといえよう。
→いけばな
執筆者:岡田 幸三
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立華とも。いけばなの花形(かぎょう)。江戸前期に2世池坊専好の跡を継いだ専存没後,その子専養を2世専好の門下の安立坊周玉(あんりゅうぼうしゅうぎょく)や十一屋(じゅういちや)太右衛門らが擁立し,寛文年間に立花(たてはな)から立花(りっか)を創出。立花は役枝(やくえだ)を固定化し,胴作(どうづくり)の景の表出を競うものである。その後,表現形式を変化させていったが,明治10年代に池坊専正が胴作を含むすべてを固定化し,現在の正風体(明治)立華が成立した。1962年(昭和37)には新しいいけばなの理論をとりいれた現代立華が制定された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1462年(寛正3),池坊専慶が金瓶に草花数十枝をたてたのを《碧山日録》は,〈皆その妙を嘆ずる也〉とつたえ,1525年(大永5),池坊専応は《二水記》のなかで,〈池坊六角堂執行花上手也〉と記されている。16世紀の中ごろは,いわゆる天文口伝書の時代であるが,《池坊専応口伝》や《専栄花伝書》がつたえるとおり,いろいろの立花(たてはな)の系統が池坊のなかにまとまってゆく時期であった。桃山時代になると,ほかの流派はほとんどみられず,立花を家業とする池坊の位置は定着した。…
…供花を立てる花瓶は水瓶(すいびよう)形で,器ののどの部分が細く口がややひろがっているため,挿した形は花が直立するようになり,器ののどの細い部分につめものをして花を安定させる留め方がしだいにくふうされてきたものであろう。室町末期に成立した〈立花(たてはな)〉が,中心となる枝が直立する形を正式な形としたのは,供花のなかでも水瓶形の器に挿して供える花の形をその源流としているからでもある。夏の季節をのぞいて,中心になるものは樹の枝で直立し,それに他の花材がそえられてゆく初期の立花は,飾る花とはいいながら聖性をもった一瓶の花とみなされていて,中国の挿花とはちがって依代的な花への神聖観のうかがえるのは特徴といえよう。…
… いけばなというと色とりどりの生花をいけるように思われるが,正月の床飾や仏壇の供花(くげ)は常緑樹の枝を中心に花があしらわれる。こういう形の立花(りつか)をもって格式ある〈はな〉とみる感覚は,いまも濃く伝承されている。高野参詣(こうやさんけい)の帰りにはマキ(槙)の枝をいただいてくる。…
…将軍家の保護を得た五山にかわり,林下の大徳寺が社会各層の帰依を得て隆盛に向かうのも,応仁・文明の乱前後からで,《狂雲集》を著した一休は,後世にも大きな影響を及ぼした。 さて武家社会では,将軍家を中心に,諸分野にわたる芸能者がこれに近侍奉仕したのが特徴で,猿楽の音阿弥や作庭の善阿弥・小四郎・又四郎3代,同朋衆では唐物奉行に当たった能阿弥・芸阿弥・相阿弥代,香,茶の千阿弥,立花(たてはな)の立阿弥などの名が知られる。このうち同朋衆は,義持,義教を経て義政の時代に最も活躍するが,とくに唐物同朋は将軍家による唐物収集を担当し,目利(めきき),保管,表装あるいは唐物唐絵をもってする座敷飾に当たった。…
…花道成立以前から行われていた花,草,木を花瓶に〈立てる〉形式から,古くは〈たてはな〉と呼ばれ,室町時代には定式化した。成立当初の〈立花(たてはな)〉の形式と目的は,室内を飾り,それを眺め楽しむということであった。1490年ころになると,花瓶に〈立て〉られる種々の草木のうち,その中心となるものを〈しん〉(心,身,真)と呼び,それに添えるものを〈下草〉と呼んで,それぞれの約則名によって立てられるようになった。…
…いけばなのなかの立花の啓蒙的な伝書。《古今立花大全》ともいう。…
…1462年(寛正3),池坊専慶が金瓶に草花数十枝をたてたのを《碧山日録》は,〈皆その妙を嘆ずる也〉とつたえ,1525年(大永5),池坊専応は《二水記》のなかで,〈池坊六角堂執行花上手也〉と記されている。16世紀の中ごろは,いわゆる天文口伝書の時代であるが,《池坊専応口伝》や《専栄花伝書》がつたえるとおり,いろいろの立花(たてはな)の系統が池坊のなかにまとまってゆく時期であった。桃山時代になると,ほかの流派はほとんどみられず,立花を家業とする池坊の位置は定着した。…
…供花を立てる花瓶は水瓶(すいびよう)形で,器ののどの部分が細く口がややひろがっているため,挿した形は花が直立するようになり,器ののどの細い部分につめものをして花を安定させる留め方がしだいにくふうされてきたものであろう。室町末期に成立した〈立花(たてはな)〉が,中心となる枝が直立する形を正式な形としたのは,供花のなかでも水瓶形の器に挿して供える花の形をその源流としているからでもある。夏の季節をのぞいて,中心になるものは樹の枝で直立し,それに他の花材がそえられてゆく初期の立花は,飾る花とはいいながら聖性をもった一瓶の花とみなされていて,中国の挿花とはちがって依代的な花への神聖観のうかがえるのは特徴といえよう。…
…いけばなのなかの立花の啓蒙的な伝書。《古今立花大全》ともいう。…
※「立花」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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