日本歴史地名大系 「北谷間切」の解説 北谷間切ちやたんまぎり 沖縄県:沖縄島中部北谷町北谷間切現北谷町・嘉手納(かでな)町域にあたる。沖縄島中部西海岸に位置し、北は読谷山(ゆんたんじや)間切、東は越来(ぐいーく)間切・中城(なかぐしく)間切、南は宜野湾(じのーん)間切。西は東シナ海に面する。中頭方一一間切のうち。「琉球国旧記」「球陽」では北谷(ちやたん)郡・北谷(ちやたん)県とも書く。「おもろさうし」に「きたたん」、「歴代宝案」第一集巻一七に載る正統六年(一四四一)六月七日付の国王咨文に「吉旦担」とある。また弘治四年(一四九一)の中山使に「紀闍丹」、同六年には「吉周丹」とあるとされ(南島風土記)、古琉球期には「きたたん」と呼称されており(万暦五年九月六日「北谷掟知行安堵辞令書」廉姓大宗家家譜)、キタタン→キチャタン→チチャタン→チャタンと転訛したとみられる。首里城から北谷(ちやたん)村の間切番所までの距離は二里九合四勺(約二里三四町)であった(里積記)。絵図郷村帳によれば所属村はあぎな(安仁屋、現宜野湾市)、北谷・くわい(桑江)・平安山(はんざん)・すなべ(砂辺)、野国(ぬぐん)・賀手名(かでいなー)(嘉手納)・屋郎(やら)(屋良、現嘉手納町)、山内(やまち)(現沖縄市)の九村で、現在の宜野湾(ぎのわん)市域から沖縄市域にまで及ぶ。正保国絵図では「北谷間切(きたたんまぎり)」の高三千四三五石余。琉球国高究帳によると北谷間切九ヵ村は高頭三千四三五石余、うち田八一二石余(うち永代荒地四二石余)・畠二千六二二石余。一六六八年(寛文八年)の琉球国郷帳でも同高で、畠方のうち一二石余が桑役。安仁屋(あんな)村は七一年宜野湾間切に(球陽)、山内村は一六六〇―七〇年頃越来間切に編入された(北谷町史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報