北谷村
ちやたんむら
[現在地名]北谷町北谷・北谷一―二丁目・北前・北前一丁目
現北谷町南部の沖積低地(北谷原・西前田原・西表原・安良波原)に位置し、西は東シナ海に面する。北は伝道村・北谷グスクのある丘陵および白比川を境に桑江ヌ前の屋取集落(のち桑前)、東は玉代勢村、南は北谷ヌ前の屋取集落(のち北前)および佐阿天川(上流は普天間川)で宜野湾間切安仁屋村(現宜野湾市)などと接する。北谷間切の行政の中心で間切番所が所在し、海岸線に沿って南北に走る西海道(現国道五八号)を挟んで住居がある。「おもろさうし」に「きたたん」、「歴代宝案」には「吉旦担」などとあって、絵図郷村帳には北谷村と表記される。琉球国高究帳によると高頭七七〇石余、うち田三〇四石余(うち永代荒地九石余)・畠四六六石余。尚豊王一九年(一六三九)旱魃で北谷田圃が枯渇、住民が餓死する事態となったため、王府は普天間川に堰(糸満井)を設け田畑に導水した。
北谷村
きただにむら
[現在地名]太宰府市北谷
宰府村の北にあり、宝満山西麓、御笠川最上流域の山間に位置する。北は糟屋郡炭焼村(現宇美町)。村名は南の内山村の南谷に対して北谷といったことに由来する。もとは小野と称したという(続風土記)。小早川時代の指出前之帳では北谷村の田一九町四反余(分米一九三石余)・畠二町一反余(分大豆一一石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は二八一石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三〇四石余、家数二四・社一、人数二〇二(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も三〇四石余。
北谷村
きただにむら
[現在地名]鹿央町北谷
国見山東山麓沿いに立地し、東は上広村、北は姫井村、西は梅木谷村、南は仁王堂村に接する。国見山と東の金比羅山(二六三・五メートル)により形成される谷には谷頭集落の霜野村を起点として、中谷・北谷・梅木谷と北に向かって谷の各部の名称を村名に冠した村が並ぶ。近世は山本郡正院手永に属する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「長福寺村」、元禄国絵図に「下野村之内長福寺村」があり、「国誌」によれば古くは長福寺村とよんでいたが、享保年間(一七一六―三六)故あって北谷村と改めたという。
北谷村
きただにむら
[現在地名]洲本市安乎町北谷
安乎下村の北東にあり、津名郡に属する。南は安乎中田村、西は古宮村。南東流する岩戸川支流北谷川に沿って東西に延びる。岩屋街道は当村と安乎下村との境を南北に通る。同村の町送り場を過ぎて少し北上した所に当村庄屋太田氏の屋敷がある。文化一四年(一八一七)三月の阿波徳島藩主巡察の折には、休息所に当てられた(「書記」原口家文書)。
北谷村
きたやむら
[現在地名]草加市北谷町・北谷一―三丁目・松原四丁目・小山一―二丁目、川口市安行北谷
花栗村の北にあり、東部に峯村(現川口市)の飛地峯村新田(峯分)がある。伝右川が中ほどを南流する。足立郡赤山領に属した(風土記稿)。田園簿では田一八九石余・畑三〇石余、関東郡代伊奈忠治領。以後領主は花栗村と同じ。検地は寛永一六年(一六三九)に行われた(風土記稿)。日光道中草加宿の助郷で、勤高二一九石(享保一一年「草加町助郷帳」大川家文書)。
北谷村
きただにむら
[現在地名]八尾町北谷
坂下村の南方、久婦須川右岸の山腹にある。天正一一年(一五八三)八月二〇日の知行方目録(土佐国蠧簡集残篇)に村名がみえ、当所など一四五俵のところが佐々定能に与えられている。正保郷帳では坂下村と合せて高一一三石余、田方二町六反余・畑方四町九反余。承応四年(一六五五)の村御印では草高一〇五石余(免一ツ九歩七厘)で、那古屋蔵人など四人の給人地、蔵入分は二八石余、夫銀は一〇〇石につき一四〇匁、口米は一石につき八升、小物成銀は八匁余(村々御印物等書上)。
北谷村
きただにむら
北は上露村、南は小附村(現すさみ町)、東は大瀬村・竹垣内村、西は市鹿野村と境を接する。日置川の支流将軍川から分れた御社川(現宮城川)の谷沿いの村。「続風土記」に「大瀬川谷の北にあり、故に北谷と云ふ」と記される。
北谷村
きただにむら
[現在地名]輪島市北谷町
西脇村の西、河原田川中流西方の山間に立地。正保郷帳に村名がみえ、高九八石余、田方四町八反余・畑方一町六反余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免五ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一〇八石、免五ツ九歩、小物成は山役三〇匁・漆役五匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)。
北谷村
きただにむら
[現在地名]上越市北谷
土口村の東、桑取川の谷に位置。正保国絵図によれば高六八石余。天和三年郷帳では五三石。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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