日本歴史地名大系 「千々石庄」の解説 千々石庄ちぢわのしよう 長崎県:南高来郡千々石町千々石庄古代よりみえる高来(たかく)郡内の地名・庄名。千々岩などとみえるほか、キリスト教関連の史料ではCcingiva・Chijivaなどと記され、また中国の地図には「知十歪」と記載されている(嘉靖四〇年「日本図纂」所収日本国図、同年頃の「万里海防図論」日本国図、万暦五年「図書編」日本国序日本国図)。応和三年(九六三)二月一二日の肥前国国符(宇佐大鏡)に「千石山」とみえるのは当地に関連すると考えられ、もと宇多天皇第七皇女婉子内親王家の所領の高来郡油山(あぶらやま)十二箇所の一つで、延喜一〇年(九一〇)二月一三日に豊前宇佐宮に施入され、応和三年になって正式に引渡されている。正応五年(一二九二)八月一六日の肥前河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書)に庄園分として「千々岩庄三十丁」とみえ、肥前国一宮河上(かわかみ)社(現佐賀県大和町)の造営費用を負担している。観応三年(一三五二)足利直冬方の小俣氏連は矢上(やがみ)城(現長崎市)から軍勢催促の命を出して「千々岩津」に高来郡の勢力を集め(同年閏二月一六日「小俣氏連感状」深江文書)、閏二月一七日自らも「千々石」に移っている(同年三月五日「安富泰治軍忠状」同文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by