高来郡(読み)たかくぐん

日本歴史地名大系 「高来郡」の解説

高来郡
たかくぐん

肥前国の南部に位置する郡。北東部から南東部にかけて島原湾・有明海、西部は橘(たちばな)湾に臨む一帯で、西部および北部ともに彼杵(そのき)郡と接する。郡域は現在の北高来(きたたかき)郡・諫早(いさはや)市、島原半島の南高来郡・島原市および長崎半島にかけての長崎市南部、西彼杵(にしそのぎ)郡三和(さんわ)町・野母崎(のもざき)町にわたる(天保郷帳による)。郡名は高木・高久などの表記がある。訓は「和名抄」東急本に多加久とあり、中世にも「たかくのこをり」などとみえ(正応六年四月二日「藤原幸円譲状案」大川文書)、江戸時代初期の日本図(河盛家蔵)にタカク、「寛政重修諸家譜」巻二九などに「たかく」の訓が記される。

〔古代〕

島原市の弥生時代前期から終末期にわたる景華園(けいかえん)遺跡では鉄剣形銅剣・勾玉・絹糸・青銅鏡などのほか、一〇〇基余の甕棺が検出したといわれ、有力者の存在を想定させる。南有馬(みなみありま)町の北岡金比羅祀(きたおかこんぴらし)遺跡、諫早市の立石(たていし)遺跡などを含めてこうした拠点集落とは別に、弥生時代中期には口之津(くちのつ)町の三軒屋(さんけんや)貝塚、加津佐(かづさ)町の内野(うちの)貝塚などの海辺集落があり、また布津(ふつ)町の布津木場原(ふつこばばる)遺跡や国見(くにみ)町の百花台(ひやつかだい)遺跡などのように山麓部の生活を伝える遺跡もみられる。北有馬町の日本最大規模とされる原山(はらやま)遺跡の支石墓は三群約一〇〇基余を数える。橘湾に臨む長崎市牧(まき)島の曲崎(まがりざき)古墳群は確認された一〇〇基近い墳墓群で、海を生業の中心に置く人々の墓地と想定されている。高来(たかき)町の上田井原(かみたいばる)遺跡では突帯文系土器や黒髪式土器などから中九州系文化とのつながりが想定され、諫早市の六世紀前半代とされる小野(おの)古墳では伽耶系陶質土器の影響を受けた初期須恵器、森山(もりやま)町の西(にし)ノ角(すみ)遺跡や北有馬町の今福(いまぶく)遺跡では畿内の庄内式系の二重口縁壺片が出土、いずれも海路をもって受容したものと考えられる。有明海に面した海岸丘陵上には愛野(あいの)町の円墳一本松(いつぽんまつ)古墳、瑞穂(みずほ)町の円墳柿(かき)ノ本(もと)古墳、国見町の高下(こうげ)古墳、高来町の円墳善神(ぜんじん)さん古墳、小長井(こながい)町の円墳長戸鬼塚(ながどおにづか)古墳など多数の古墳が確認されているのも、有明海沿岸部の島原半島での有力者の存在の一面を示すものであろう。これらの古墳のうちには線刻壁画がみられ、六世紀末から七世紀代の長戸鬼塚古墳には船・鯨(あるいは捕鯨か)など、六世紀末とされる善神さん古墳では斜格子文・人物・動物が描かれる。

九州の県は「魏志倭人伝」にみえるクニの系譜を引くものがあり、古墳時代前期の古墳の分布地と重なるという。しかも海上交通の要所で、令制下の郷とその範囲がほぼ一致する場合が多く、県主は司祭者的性格が強いという指摘があるが、「高来県」(「日本書紀」景行天皇一八年六月三日条)は野島郷(野鳥郷)あるいは神代(こうじろ)郷とする説がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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