千々石村
ちぢわむら
[現在地名]千々石町北舟津・南舟津・下峰・上峰・野田・小倉・木場
現千々石町域のすべてを村域とする。地内は海に臨む船津・下峰、その東の上峰、船津の東の野田・小倉・木場などからなる。千々石の地名は「肥前国風土記」高来郡条にみえる土歯(比遅波)池、つまりヒジハに由来すると考えられる。伝承上も池や海原が舞台となり、島原半島の中央にある諏訪の池(現小浜町か)にすむ大蛇が肥後天草の鬼池の大蛇と格闘して海が血に染まったことから血々灘と称され、これが転訛して千々石灘になったという。また味噌五郎が飼う大牛で田代原を耕し、その余土を有明海に投じたところ山田島(現吾妻町か)になったとも伝える。南舟津の橘寺は聖徳太子七大寺の一つ大和国橘寺(現奈良県明日香村)の別院であるという。上峰の野鳥は「和名抄」に記される高来郡野鳥郷の遺称地とする説があり、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる西海道野鳥駅の所在地とも想定される。付近の休場辺りからは製鉄にかかわる遺物が出土。大宝元年(七〇一)頃に創祀された温泉神の分霊の一つが千石神(温泉神社)であると伝え(歴代鎮西要略)、木場名の温泉山大乗院(現小浜町)の女人堂があったという跡に三基の石碑がある。
豊臣秀吉によるバテレン追放令の後、一五八八年(天正一六年)当地にイエズス会の学院が生月(現生月町)から移転してきたことから布教上重要な拠点となったものの、水と石以外は相当不足していて余所から車で運ばなくてはならない有様であったため、年内に有家(現有家町)に移転した。同年六月千々石のキリシタンの貴人ジョアンがドン・エステヴァン(有馬晴信の弟)に伴われて外出するために家来の若い妻に四分一里離れたコバ(木場名であろう)にいる別の家来を呼びにいかせたところ、途中で悪魔に魅入られ、幻影をみたとしてたどり着けずに、雲仙の山中に入り込んでしまったという。一五八九年当地の司祭は一千三〇〇人余の告白を聞いたという。一五八六年にはすでに千々石に司祭館があり、野井(現愛野町)などを管轄し、一五九二年(文禄元年)には有馬・島原・千々石などの六ヵ所の布教機関(カーザ、レジデンシアなど)で教会四八ヵ所・信徒六万八千人余を世話していたという。一五九三年秀吉の肥前名護屋(現佐賀県鎮西町)への下向に伴い、役人が千々石に入り込んできたため宣教師らは警戒にあたったものの、兵の一部が教会や司祭館を襲ったという(以上、フロイス「日本史」など)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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