千倉庄(読み)ちくらのしよう

日本歴史地名大系 「千倉庄」の解説

千倉庄
ちくらのしよう

現鹿島町から飯舘いいたて村にかけての真野まの川流域に比定される中世の庄園。嘉禄三年(一二二七)一二月日の相馬能胤譲状案(正木文書)に「行方郡内 千倉庄加(北)草野定」とみえ、能胤(義胤)によって当庄などの所領が娘とよ(土用)御前に譲られているが、土用御前が幼少のためか実際の支配は義胤の女房(妻)があたることが定められている。なお文正二年(一四六七)二月二五日の目々沢道弘置文(相馬文書)に、「千蔵庄」は文治五年(一一八九)の奥州合戦の戦功により相馬氏が拝領したものと記される。貞永元年(一二三二)一一月一三日に土用御前は当庄などの所領安堵を受けているが(「将軍家政所下文案」正木文書)、のち新田一族の岩松時兼に嫁ぎ、当庄などは二人の間に生れた経兼に譲られ、弘安元年(一二七八)一〇月三日に経兼の子政経に相伝された(「岩松経兼譲状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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