日本歴史地名大系
「南大分地区条里地割遺構」の解説
南大分地区条里地割遺構
みなみおおいたちくじようりちわりいこう
大分川の左岸、上野台地の南側にあたる大分市古国府から荏隈にかけて東西二六町、南北一〇町程度の条里地割遺構がみられた。阡線は約一五度西に偏っており、台地から大分川への傾斜面に規制されたものと考えられている。坪内の地割は長地型が大半であるが、縁辺部の一部には半折型がみられる。これらの条里地割は大分川旧河道より北側にあたるが、同市豊饒・畑中の氾濫原にはこれらと異なり、方位をほぼ真北にとった地割が若干の乱れを伴ってはいるが確認される。条里呼称としては、羽屋に七ノ坪・大坪、荏隈に大坪が存するのみである。康保二年(九六五)三月三日の由原宮宮師僧仙照辞(柞原八幡宮文書)にみえる由原宮(現大分市)の季供田の所在地南七条墓田里三三坪は、同市奥田の塚田にあたると考えられている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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