南弘生村(読み)みなみひろおむら

日本歴史地名大系 「南弘生村」の解説

南弘生村
みなみひろおむら

[現在地名]西合志合生あいおい

弘生村の南、合志こうし台地の北西部にある。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳によると、弘生組に属していた。戸数二二・家数一一七、屋敷一町八反六畝余、人数一一七(うち庄屋一・頭百姓と小百姓合一八・名子九・名子別当二・下人三)、牛馬三〇。持高最高は庄屋の一一四石余で、大半は二〇石代(七戸)・一〇石代(九戸)であった。その後竹迫手永に属し、「国誌」は「小合志村小木迫村今山村黒松村鬼塚村等ノ小村アリ」と記す。天保期(一八三〇―四四)以後の村柄を示す明治三年(一八七〇)竹迫手永手鑑によれば、竈数六四・人数四五六、馬八三、村高七二三石四斗余、上知・給知の田二二町六反余・畑三八町六反八畝余、ほかに諸開二八町三反二畝余があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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