菊池郡(読み)きくちぐん

日本歴史地名大系 「菊池郡」の解説

菊池郡
きくちぐん

面積:二八四・〇四平方キロ
七城(しちじよう)町・泗水(しすい)町・西合志(にしごうし)町・合志(こうし)町・菊陽(きくよう)町・大津(おおづ)町・旭志(きよくし)村

県北部に位置し、大部分が東から西へ緩やかに傾斜する洪積台地からなっている。北は菊池市、東は阿蘇郡、南は熊本市・上益城(かみましき)郡、西は鹿本(かもと)郡に接する。東に阿蘇外輪山の鞍(くら)岳(一一一八・六メートル)・矢護(やご)山(約九四〇メートル)、その西麓に菊池台地が展開する。鞍岳西麓に源を発する合志川が北方を西流し、南には白川が河岸段丘を形成して熊本市へ西流する。集落はこれらの川沿いの平野と谷頭・台地に点在する。南部を国鉄豊肥本線と国道五七号が並行して横断し、国道三八七号・三二五号が郡内を縦貫している。現在の菊池郡域のほとんどは、かつての合志郡域に重なる。菊池郡の郡名は「三代実録」貞観一七年(八七五)六月二〇日条に「菊池郡倉舎」とみえる。「和名抄」は「久々知」と訓ずる。

〔原始・古代〕

阿蘇外輪山西麓、それに続く台地上と周辺部に多くの遺跡がみられる。先土器時代の遺跡として旭志村の湯舟(ゆぶね)遺跡からサヌカイトの尖頭器が、七城町の小野崎(おのざき)遺跡から細石刃核などが多く出土している。縄文早期―中期の遺跡は東部山麓から丘陵地帯にみられ、大津町の無田原(むたばる)遺跡・中後迫(なかうしろざこ)遺跡などがある。縄文後期から晩期の石器製作遺跡として西合志町の二子山(ふたごやま)石器製作遺跡(国指定史跡)があり、ほかに縄文後期の遺跡として泗水町の三万田東原(みまんだひがしばる)遺跡、合志町の御手洗(みたらい)遺跡などがみられる。大津町のワクド石(いし)遺跡からは籾の圧痕をもつ土器片が出土している。弥生時代では旭志村の藤尾支石墓(ふじおしせきぼ)群、住居跡と多量の鉄器を伴った大津町の西弥護免(にしやごめん)遺跡などがある。泗水町の古閑原(こがばる)遺跡からは漢式鏡片が、合志町の木瀬(きせ)遺跡からはS字文鏡が出土し、ほかに大津町の真木(まき)遺跡・大松山(おおまつやま)遺跡などから銅戈が出土している。古墳時代の遺跡は平野部周辺の高台に多く分布し、泗水町に方格規矩文鏡を出した久米若宮(くめわかみや)古墳、七城町に菊池川上流域における古式の横穴式石室として注目される長明寺坂(ちようめんじざか)古墳群がある。後期の横穴群は台地周辺の崖面にほぼ全域にわたって分布している。

現郡域の大半は古代合志郡とよばれていた地域にあたり、合志郡の名は「日本書紀」持統天皇一〇年(六九六)四月二七日条に「肥後国皮石郡」とみえ、平城宮出土木簡に「肥後国恰志郡調綿壱佰屯四両 養老七年 得足」とある。郡家は初め泗水町住吉(すみよし)に置かれていたと推定されており、同町域内には条里の遺構も想定されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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