日本歴史地名大系 「古賀庄」の解説
古賀庄
こがのしよう
現安曇川町中部から北西部の安曇川流域を庄域とする庄園。古賀庄は同川を境に南・北に分れ、北古賀庄は上・下に分れていた。北古賀上庄は現上古賀付近、北古賀下庄は下古賀付近、南古賀庄は南古賀・
広瀬南庄・同北庄の立庄の経緯は未詳だが、平安末期から南北朝期にかけて広瀬庄の名称が多く使用されている。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)には、院庁管轄の庄園として「近江国広瀬南」とみえ、「山槐記」元暦元年(一一八四)九月一五日条に載る「近江国注進風土記」では、高島郡に「広瀬郷」の存在が確認される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報