「芸藩通志」は
「芸藩通志」
大永七年(一五二七)四月二四日付で白井縫殿助膳胤へ宛てた大内義興宛行状(「閥閲録」所収白井友之進家文書)のなかに「佐東北庄参百貫地」とみえて以降、北庄の地名はしばしば現れる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
中世における福井市の呼称。足羽御厨(あすわのみくりや)・足羽社(やしろ)庄の北部、足羽川沿いの一帯をいう。鎌倉時代の守護所、南北朝時代の朝倉氏の居館はここに置かれた。ただし、越前(えちぜん)国府は府中(越前市)にあり、朝倉氏も室町時代に一乗谷(いちじょうだに)へ移住、北庄が一国の中心地となったのは、1575年(天正3)柴田勝家(しばたかついえ)の入部以後のことである。ここに築城し、城下町を形成した勝家は、83年豊臣(とよとみ)秀吉と争って敗死し、これによって北庄の名は広く知られることとなった。1600年(慶長5)に入部した松平秀康(ひでやす)により整備され、1624年(寛永1)松平忠昌(ただまさ)の代に福居、元禄(げんろく)(1688~1704)ごろ福井と改称された。
[金龍 静]
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
現在の福井市の旧称。足羽御厨(あすわのみくりや)の北荘であったためとも,足羽川の北岸にあったためともいう。中世,北陸道ぞいで平野中央部のため朝倉領国下で重要拠点の一つとなり,朝倉氏滅亡後の1575年(天正3)柴田勝家が北陸経営の拠点として北庄城を築き,城下町となる。柴田氏は1583年豊臣秀吉に滅ぼされ,関ケ原の戦後は徳川親藩の城下町となり,寛永~元禄期は福居,その後は福井と名を変えた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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