高島郡
たかしまぐん
面積:五〇九・〇九平方キロ
マキノ町・
今津町・
新旭町・
安曇川町・
高島町・
朽木村
県北西部にあり、東は琵琶湖に面し、南は比良山地で滋賀郡志賀町・大津市、西は京都市左京区・京都府北桑田郡美山町・福井県遠敷郡名田庄村・同県小浜市・遠敷郡上中町・同県三方郡三方町、北は同郡美浜町・同県敦賀市。北端の東は伊香郡西浅井町に接する。野坂山地・比良山地が湖岸に迫り、平地は少ない。北から知内川・石田川・安曇川・鴨川が琵琶湖に注ぎ、その周辺に田畑が広がる。湖岸に沿ってJR湖西線、国道一六一号(西近江路)が通り、大動脈となっている。安曇川に沿った朽木谷の山中を国道三六七号が南北に通り、古くから京都と北国を結ぶ最短路であった。今津町から西へ向かう国道三〇三号(九里半越)は若狭小浜と琵琶湖の湖上交通とを結ぶ重要な街道であった。また国道一六一号のうちマキノ町海津から北への山越えの道は七里半越とよばれ、越前敦賀と琵琶湖を結ぶ、古代からの物資輸送の重要路であった。天平五年(七三三)の山背国愛宕郡計帳(正倉院文書)によれば、和銅五年(七一二)に壬生逆が「近江国高島郡藁園」に逃亡したことがみえる。
〔原始・古代〕
湖西の交通の要衝で、平地は饗庭野により南と北に分れるが、安曇川・鴨川の形成する広い扇状地をもつ南部が郡の中心になったようである。高島町の鴨遺跡は縄文早期から近世まで複合して遺跡が存在し、安曇川町の南市東遺跡も弥生中期から中世まで複合する。前者からは「朝」字銅印や、農業管理にかかわる木簡、若狭国遠敷郡の荷札木簡なども出土し、郡衙または庄園管理施設とも考えられている。後者からは朝鮮系の陶質土器が伴出し、渡来人の居住した遺跡である可能性もある。北陸道と若狭街道の分岐点近くの今津町の弘川遺跡は奈良時代の何らかの官衙的施設、あるいは郷倉ではないかと考えられている。高島町の稲荷山古墳で発見された冠・沓・魚佩・耳飾などは明らかに朝鮮半島の文化的影響を受けたもので、大和の先進的文化に比肩しうる優れた歴史と文化が当郡にも存在した。古代豪族として三尾氏・角氏などが知られ、これらの氏族の首長の墓所であろう。継体天皇は父の彦主人王が近江国高島郡三尾別業で妻振媛との間にもうけた子であった。三尾別業はのちの「和名抄」の三尾郷とかかわり、北陸道を介して越前国坂井郡ともつながり、さらに湖上交通を通じて継体天皇の出身豪族とも考えられている息長氏の本拠地の坂田郡とも至近の位置関係にある。
高島郡
たかしまぐん
明治二年(一八六九)八月一五日設置(公文録)。旧タカシマ場所を郡域とする。後志国の北東部、現在の小樽市北西部に位置する。南東部は小樽郡、西部は忍路郡に接し、北部は日本海に臨む。郡名は蝦夷開拓御用掛松浦武四郎が従来の場所名から「高島郡」を提案(「郡名之儀ニ付奉申上候条」松浦家文書)、これが採用された。明治二年九月兵部省の所轄となり、同三年四月開拓使の管轄となる(「事業報告」第一編)。同年村並とされ、名主として旧場所請負人西川伝右衛門家筋の奥村兵助が任命された。同四年六月開拓使庁が札幌に開設、小樽仮役所は開拓使小樽出張所となり、小樽・高島二郡を管轄した(「事業報告」第一編)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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