改訂新版 世界大百科事典 「朽木氏」の意味・わかりやすい解説
朽木氏 (くつきうじ)
宇多源氏の流れをくむ近江の豪族。佐々木氏の一族。佐々木信綱が承久の乱の功によって近江国高島郡朽木荘の地頭職を与えられたのち,その曾孫義綱がここを領して朽木氏を称するようになった。また朽木氏をはじめとする佐々木一族は,いくつかの系統に分かれて高島郡内に割拠し,高島七党と呼ばれる武士団を形成した。朽木氏は荘内の市場に居館を構え,京都と若狭国小浜を結ぶ交通・運輸の要衝をおさえていた。南北朝内乱では足利尊氏に従って北朝に属し,各地で戦功をあげた。1460年(寛正1)から67年(応仁1)まで朽木荘が幕府御料所となるなど,朽木氏は室町幕府と密接な関係を保ち,稙綱・晴綱は将軍足利義稙・義晴から諱字(いみなじ)を与えられている。また戦国争乱のなかで京都を追われた将軍義晴や義藤(義輝)は,1528年(享禄1)および51年(天文20),54年と数回にわたって朽木に逃れ,稙綱を頼ってここに滞在した。そのため稙綱は幕府において御剣役,申次役などをつとめている。その後,朽木元綱は織田信長ついで豊臣秀吉に仕え,秀吉より高島郡の蔵入地9203石余の代官や越前国今南東郡下新荘内新村の検地代官に任じられている。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦では,はじめ西軍の大谷吉継に属したが,小早川秀秋らとともに途中から東軍に転じ,その功によって徳川家康より9500石余の本領を安堵された。その後,所領は3子に分けられたが,長子宣綱は旗本として江戸幕府に仕え,3000石の交代寄合衆を代々つとめた。一方,元綱の三男稙綱は,書院番頭,奏者番などを経て36年(寛永13)若年寄をつとめ,ついで常陸国土浦藩主として合わせて3万石を領した。その子稙昌は69年(寛文9)丹波国福知山3万2000石に移封され,子孫は代々福知山藩主として明治維新にいたり,子爵を授けられた。江戸後期の蘭学者に朽木昌綱がいる。
執筆者:田代 脩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報