朝日日本歴史人物事典 「右馬允家安」の解説
右馬允家安
鎌倉後期の名主,沙汰人。藤原家安,右馬尉,馬允などとも称される。東寺領丹波国大山荘(兵庫県丹南町)一井谷の行恒名の名主であったと推定され,永仁3(1295)年の東寺と地頭との下地中分以降,沙汰人職に補任される。文保2(1318)年には,一井谷百姓を代表して預所重舜の非法を追及,東寺の法廷で対決し,年貢の百姓請を実現した。悪党厳増の代官の荘内乱入の際は,人勢,兵粮米を集めて防戦し,また作田の確保をめぐって,他の有力名主らと共に地頭方の苅田を強行した。中世村落の中核に位置する存在として,研究史上村落領主と概念化されている。<参考文献>大山喬平『日本中世農村史の研究』
(水野章二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報