一井谷(読み)いちいたに

日本歴史地名大系 「一井谷」の解説

一井谷
いちいたに

京都東寺領大山おおやま庄内を流れる大山川の支流に開けた谷または村。庄域の中央部、現在の一印谷いちいんだにに比定される。南北朝期末からは一院谷とする表記もみられる。康平四年(一〇六一)七月の大山庄坪付案(東寺文書、以下断りのない限り同文書)に記す「櫟本独条」「二櫟本里」はイチイの音が通じており、一井谷に比定される。また現在の一印谷の地名西谷は康平坪付においても「西谷田」の坪名でみえる。

〔鎌倉期―百姓請の成立〕

東寺と地頭中沢基員の下地中分の際に作成された永仁三年(一二九五)三月八日の大山庄地頭中沢基員分田坪付注文および同日の大山庄雑掌祐厳等連署分田坪付注文案によれば、「池尻村内一井谷」一四町四段一〇代など計二五町・畠五町が東寺方へ引渡されたが、一井谷は池尻いけじり村に含まれていた。この時の四至は三方は山の稜線、南は谷の入口を画する谷川で、南のみ現在の一印谷の範囲とやや相違する。一井谷は池尻村の東端に位置し、水系的にも独立していたが、中分後は一つの村として自立していく。一四世紀初めには東寺領内部で大山庄の庄務権をめぐって紛争が起き、田地が供僧方(大方)と執行方(切田方)とに分割されたが、正和五年(一三一六)一二月の大方年貢算用状では一井谷は田地八町二段(損田三町三段二三代・得田四町八段二七代)、平畠五段四〇代・山畠三段三〇代・荒替三〇代であった。文保元年(一三一七)一〇月と一二月にはそれぞれ内検取帳が作成され、「れんくわう谷」(現在の猫谷、以下同)、「行恒上」「井の上」「お田かき」「小西谷」「西谷口」、「かくれ谷」(カクレ谷)、「西谷」(西谷)、「小豆谷」(小豆垣内)、「さいのまゑ」「法師丸」、「ほり田の口」(ホリタ)、「いも谷」(イモダニ)、「なかれを口」(長尾)、「大谷口」(大谷)、「なか内」(ナゴチ)、「かき田」など現在地名と一致する地名も多く確認できる。また「法師丸」には現在の星丸ほしまる池が造成されていたと思われ、「さいのまゑ」にも現在と同じく塞の神が祀られていた。またこの内検取帳には「さうてんのふん」として早田が別に検注されており、一井谷ではかなりの早稲が植付けられていたことが知られる。なおこの頃、預所重舜と大山庄民との間で年貢納入をめぐって対立が起きており、一井谷百姓は東寺の法廷で重舜と対決し、翌二年百姓らは実検注文を作成し、年貢の百姓請を実現する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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