名瀬方
なぜほう
近世、名瀬間切の南西部に置かれた行政区分。現在の名瀬市の南部を除く一帯にあたる。「大島私考」によれば、名瀬間切が広大であるために置かれたという。寛文一〇年(一六七〇)公儀流人として大島に流された上総国の惣兵衛は名瀬本与人の預りとなっていたが、享保一一年(一七二六)病死している(大島要文集)。正徳二年(一七一二)から元文三年(一七三八)まで龍郷方の田畑佐文仁が行った新田開発四九四町余のうちに朝仁村・小宿村・知名瀬村が含まれている(奄美大島史)。「大島私考」によれば、村数一二(うち禿村二)で、与人と間切横目を各一名配した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 