上総国(読み)カズサノクニ

デジタル大辞泉 「上総国」の意味・読み・例文・類語

かずさ‐の‐くに〔かづさ‐〕【上総国】

上総

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日本歴史地名大系 「上総国」の解説

上総国
かずさのくに

上総国は房総半島の中央に位置する。北は下総国、南は安房国に接し、東は太平洋、西は江戸湾に面する。養老二年(七一八)南部の平群へぐり・安房・朝夷あさい長狭ながさの四郡を割いて上総国から安房国が独立し、天平一三年(七四一)いったん上総国に併合された後、天平宝字元年(七五七)再び上総国から分立した。

古代

〔上総の黎明〕

上総の由来は「古語拾遺」によれば、昔阿波の忌部が黒潮にのって房総に到着し、麻を植えたところ良質の麻が育つのでその地をふさ国と名付け、のち上下に分割し、都に近い方を上総としたという。大化前代の東国には国造が置かれ、のちの上総地域にも須恵・馬来田・上海上・伊甚・武社・菊麻の国造が設置された(国造本紀)。のちの郡名や郷名と一致するものが少なくなく、菊麻国造の領域と市原市菊間きくま古墳群、須恵国造と富津市内裏塚だいりづか古墳群など、それぞれの地域に関連を想定される古墳群も認められる。なお継体天皇の后が生んだ女子の一人に馬来田皇女がいる。

「日本書紀」安閑天皇条によれば、内膳卿膳臣大麻呂は伊甚国造に真珠(鰒珠か)の貢納を命じたが、期限に遅れたので捕縛しようとしたところ春日皇后の寝室に逃れ、皇后を失神させてしまった。そこで伊甚国造は贖罪のため伊甚屯倉を献上し、これがのちのいすみ郡であるという。年代は直ちに信じられないが、夷郡には春部直氏がみえるので(「三代実録」貞観九年四月二〇日条)、屯倉が置かれたことは史実とみなされる。こうした屯倉の設置には地方豪族の支配領域に直轄領を楔のように打込み、勢力を伸長させる大和政権のあり方をみることができる。もう一つ記紀神話には上総が登場する説話がある。景行天皇が日本武尊に命じて東の蝦夷を討伐するように命じた時のこと、日本武尊は相模から上総に渡ろうとして走水はしりみず(現浦賀水道)に至ったが、海が荒れ渡海できなかった。すると尊に同行してきた妃の弟橘比売が代りに入水し海神の怒りを鎮めることができたので、尊は無事に渡ることができた。この後日本武尊は上総国から海路たま(九十九里浜辺りか)を経て、陸奥国へ向かうというものである(「古事記」と「日本書紀」では細部に違いはある)。現在の研究では日本武尊は実在せず、東国の平定に遣わされた将軍たちの姿を日本武尊という一人の人物に投影した結果と考えられているが、尊がとったルートは実際の交通路を示している。

〔王賜銘鉄剣〕

昭和六二年(一九八七)市原市稲荷台いなりだい一号墳から出土していた鉄剣から銀象眼の銘文が発見された。

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改訂新版 世界大百科事典 「上総国」の意味・わかりやすい解説

上総国 (かずさのくに)

旧国名。現在の千葉県の一部で,房総半島の北部を占める。

東海道に属する大国(《延喜式》)。古くは〈ふさ(総)〉といい,7世紀後半の令制国の建置にともなって,上総国と下総国が成立した。〈ふさ〉の地域は,《国造本紀》によれば,成務朝に須恵(すえ),馬来田(うまくた),上海上(かみつうなかみ),伊甚(いしみ),武社(むさ),菊麻(くくま),阿波の国造が,応神朝に印波,下海上(しもつうなかみ)の国造が定まったと伝える。これ以外に長狭(ながさ),千葉国造の名がみえる。安房国分立後の上総国は,かつての須恵,馬来田,上海上,伊甚,武社,菊麻国造の地域で,阿波,長狭国造が安房国の範囲に入る。718年(養老2)に,管内の平群(へくり),安房,朝夷(あさひな),長狭4郡を割いて安房国が分立した。その後,安房国は741年(天平13)から757年(天平宝字1)の間,上総国に併合された。《延喜式》では,市原,海上,畔蒜(あひる),望陀(まうた),周淮(すえ),天羽(あまは),夷灊(いしみ),埴生(はにふ),長柄(ながら),山辺,武射(むさ)の11郡から構成され,国府は市原郡にあり,現在の市原市内と推定されている。国分僧寺・尼寺も市原郡にあり,僧寺・尼寺とも現在の市原市惣社,通称国分寺台の台地上に遺構が存在する。《和名抄》記載の田数は,2万2846町9段235歩である。《延喜式》の行程は上り30日,下り15日の遠国である。防人や蝦夷経営の兵力徴発地や俘囚の分置国の一つとされ,9世紀には俘囚の反乱が起きている。また1028年(長元1)に前上総介平忠常の乱が起きたが,彼の子孫が千葉氏,上総氏となった。
執筆者:

1180年(治承4)伊豆に挙兵して石橋山合戦に敗れた源頼朝は海上より安房に逃れ,房総の武士の支援を受け,再挙の手がかりをつかんだ。平忠常の子孫上総権介平広常,千葉介常胤はともに頼朝を支持して鎌倉幕府の開設に功をたてた。広常が当国周東,周西,伊南,伊北,庁南,庁北の武士2万騎を率い,隅田河辺の頼朝の陣に参上したとき,頼朝は彼の遅参を叱責したので,広常はかえって頼朝の将としての器に敬服したという。しかしその後広常は頼朝の嫌疑を受け,83年(寿永2)鎌倉で殺されて滅んだ。一方常胤は下総守護に任じ,その一族はいわゆる千葉六党となり,下総および上総北部に勢力をひろめた。当国守護は鎌倉時代初期に平広常,後期に足利氏,南北朝時代に佐々木,千葉,新田,上杉の諸氏,室町時代に上杉氏がなった。1213年(建保1)伊北荘を根拠とする和田義盛が挙兵して北条義時に滅ぼされる事件が起きた。この和田合戦の恩賞として北条時房が飯富荘を領し,三浦胤義が伊北郡を領した。1210年(承元4)上総国守に任ぜられた藤原秀康は,後鳥羽上皇の寵を受けた北面の武士で,討幕計画に参画し,胤義を誘い,上総を東国の反幕府体制の拠点にしようと意図したらしい。しかし計画は発覚し,勃発した承久の乱は院側の敗北に終わった。47年(宝治1)相模の三浦泰村は,安房・上総の所領から甲冑を相模に運び,宝治合戦を起こした。泰村の妹婿としてこの事件に連座した上総権介千葉秀胤は,一宮の大柳の館(長生郡睦沢町大谷木)で幕軍に討たれた。1333年(元弘3)鎌倉幕府滅亡戦に際し,千葉介貞胤は反北条勢力の側に立ち鎌倉を攻めた。

 室町時代の上総は犬懸上杉氏の本拠となり,上杉禅秀の乱後,1418-19年(応永25-26)には氏憲の遺臣榛谷重氏らが平三城(市原市平蔵),坂水城(不明,いすみ市の旧岬町か)に拠り一揆(上総本一揆)を起こしている。戦国時代に入ると,安房の里見氏が勢力をふるい,義尭(よしたか)のとき上総に進出し,小弓(おゆみ)御所足利義明を支持して1538年(天文7)北条氏綱と下総国府台(こうのだい)(市川市)で戦ったが敗れ,義明は討たれた。このころ義尭は久留里城(君津市久留里),義尭の子義弘は佐貫城(富津市佐貫)にいて南房総を分国とした。一方山間部の真里谷城(木更津市真里谷(まりやつ)),庁南城(長生郡長南町),大多喜城(夷隅郡大多喜町)には守護代武田氏一族が拠り,古河公方,小弓公方を支持して活動したが,天文期の内争により衰えた。すなわち44年(天文13)里見義尭の宿将正木時茂が大多喜城に拠る武田朝信を攻め,朝信は敗れて自殺し,武田氏に代わって正木時茂が大多喜城主となったのである。またそのころ東上総の勝浦付近も武田氏の勢力範囲であったが,正木軍が進出してこれを制圧,勝浦,一宮の諸城は正木氏一族の拠点となった。このほか万喜城(いすみ市万木(まんぎ))に土岐氏,上総の北部土気城(千葉市緑区土気町),東金城(東金市田間)には酒井氏が拠っていた。土気酒井氏は第一次国府台合戦(1538)までは里見氏に属し,戦後は北条氏に従い,第二次国府台合戦(1564)からは里見氏に属し,76年(天正4)以後は北条氏の傘下に入るなど去就常なく,北条氏傘下の東金酒井氏とは同族間で一時は対立していた。1564年(永禄7)里見義弘は再度国府台で北条氏康と戦ったが敗れ,以後上総の北半は北条氏の傘下に入り,上総南部と安房は里見氏が勢力を保った。90年(天正18)豊臣秀吉の小田原進攻に当たり,里見義康(義弘の弟義頼の子)は相州三浦に出撃して小田原到着が遅れ,秀吉の怒りを買い,安房・上総の分国のうち,上総を没収され,他の関東諸領とともに徳川家康に与えられた。
執筆者:

家康の関東入国直後に当国に配置された万石以上の諸将は,本多忠勝(大多喜,10万石),大須賀忠政(久留里,3万石),石川康通(鳴戸,2万石),内藤家長(佐貫,2万石),岡部長盛(両総の内1万2000石),万石以下では大久保忠佐(茂原,5000石),松平家忠(五井,5000石),本多重次(小磯,3000石),植村泰忠(勝浦,3000石)の諸家であった。近世を通して譜代小藩分立の地であり,また天領・旗本知行所が犬牙錯綜し,零細な領有関係がみられた。

 近世初期から元禄期ころまで,紀伊をはじめ上方の漁民が活発に関東に来漁し,江戸の発展とともに沿岸漁業の盛大化をもたらした(関東漁業開発)。紀州栖原村の漁師角兵衛は,元和の初め外房千倉村付近に渡来し,1623年(元和9)ころ萩生村(富津市萩生)に移り,竹ヶ岡・萩生・金谷3ヵ浦の磯根でタイ漁の桂網を始めている。九十九里浜の地引網イワシ漁も,1555年(弘治1)南白亀浦(なばきうら)(長生郡白子町)に漂着した紀州人が漁法を伝えたのが創始といわれ(《房総水産図誌》),川津村矢の浦(勝浦市)では元和年間紀州からきた大甫七重郎が八手網(はちだあみ)を用いイワシ漁を始めたといわれる。1780年(安永9)に記した佐藤信季《漁村維持法》には九十九里浜の地引網数計200帖とある。生産される干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)は東海地区の米穀,畿内の木綿,阿波のアイ,紀伊のミカン等農産物の肥料となった。また東京湾岸の上総ノリは,1821年(文政4)に江戸のノリ仲買商人近江屋甚兵衛が試みに小糸川河口で篊(ひび)を建てたことにはじまり,23年人見村(君津市人見)でノリの養殖を始め,しだいに沿岸諸村にひろまった。農業生産の面では,1604年(慶長9)春,代官島田伊作により雄蛇ヶ池(東金市)が完成して水利を便にし,8代将軍徳川吉宗の享保改革における殖産興業政策の一環として東金地方に大規模な開墾が行われた。農政家佐藤信淵が寛政ころ上総を遊歴し,山辺郡大豆谷(まめさく)村(東金市)の農家に滞在して耕種樹芸を営み,医業を開くなどの動きもあった。

 小藩割拠の当国において,窮乏する旗本の知行地では農民の騒擾事件が起こっているが,1785年(天明5)金谷村(富津市)農民太左衛門が旗本白須氏に減租を訴え,のち太左衛門が獄死した事件や,1750年(寛延3)阿部正甫知行夷隅郡押日5ヵ村の農民が不作用捨を願い門訴し,頭取杢右衛門が斬罪となった事件が知られている。幕末には浪人集団真忠組の騒乱がある。1863年(文久3)片貝村を根拠とした楠音次郎を主領とする一味は赤心報国と万民の困窮を救うと呼号したが,現実には暴徒として翌年一宮藩兵等により鎮圧された。寛政ころから近海にたびたび外国船が出没し,江戸防衛のため沿岸警備が重要問題となった(海防)。1792年(寛政4)老中松平定信はみずから房総豆相の海岸を巡視しており,1841年(天保12)伊豆韮山代官江川英竜等が上総,安房,相模,伊豆を巡視し,42年には今治藩に房総海岸の警備を命じ,47年(弘化4)には会津・忍2藩に上総・安房沿岸警備を命じている。1810-11年(文化7-8)ころに富津・竹ヶ岡・洲崎に砲台が造られ,また飯野藩により45年(弘化2)青木浦(富津市青木)に見張番所が置かれたという(《君津郡誌》)。こうして53年(嘉永6)ペリーの来航となり,58年(安政5)日米修好通商条約が成立する。幕末における農村の困窮ははなはだしく,堕胎,産児圧殺の風が多くみられた。60年(万延1)武射郡富田村大高善兵衛が間引子を防ぐため私費を投じ育児に努めるなど民間豪農の社会事業も行われ,明治に入ってからは木更津県の民政に継承されている。

 文化面では,測量家伊能忠敬が当国武射郡小関(山武郡九十九里町)出身,漢学塾を開いた宇佐美灊水(しんすい)(旧岬町),稲葉黙斎(大網白里市),鳥海酔車(木更津市)の学問的活動があり,新井白石は土屋藩士の子として少年時代に久留里に住み,荻生徂徠も本納村で青年期を過ごした。東条一堂(長生郡),海保漁村(山武郡)等すぐれた儒者も出ている。俳人白井鳥酔(長生郡),女流俳人織本花嬌(富津市)が出ているが,花嬌はしばしば一茶を自宅に迎えて交遊している。国際的な話題として,1609年(慶長14)前フィリピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベーロの乗船が夷隅郡沖で座礁して救出されたが,その上陸地御宿町岩和田に記念碑がある。1702年(元禄15)総石高39万1113石余,村数1149ヵ村(《内閣文庫本上総国郷帳》),1834年(天保5)総石高42万5080石余,村数1194ヵ村(《内閣文庫本天保郷帳》),1808年(文化5)総人口36万4560人(《吹塵録》)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上総国」の意味・わかりやすい解説

上総国
かずさのくに

千葉県中央部の旧国名。東海道十五か国の一つ。東は太平洋、西は東京湾、南は安房(あわ)、北は下総(しもうさ)国に連なる。古くは総(ふさ)の国(麻の古語「ふさ」によるという)といったが、大化改新(645)で上総、下総の2国に分かれた。718年(養老2)上総国のうち4郡を割き安房国をたてたが、741年(天平13)旧に復す。その後757年(天平宝字1)にふたたび安房国が分離独立して領域が固定した。『延喜式(えんぎしき)』民部上では大国で遠国に属した。郡は市原、海上(うなかみ)、畔蒜(あひる)、望陀(もうだ)、周准(すえ)、天羽(あまは)、夷灊(いじみ)、埴生(はにう)、長柄(ながら)、山辺(やまのべ)、武射(むさ)の11郡からなる。古代国府の所在地は市原市惣社(そうじゃ)、同能満(のうまん)、同郡本(こおりもと)の諸説があり、まだ確定していない。国分寺址(し)は市原市惣社字堂ノ前にあり、礎石などが現存している。一宮(いちのみや)は長生郡一宮町の玉前(たまさき)神社で、『延喜式』神名帳には「埴生郡一座大玉前神社名神大」とある。古くから東北地方経略の根拠地で、穀類輸送などで大きな役割を果たした。9世紀には俘囚(ふしゅう)の乱が市原郡などに起こった。936年(承平6)には上総介(かずさのすけ)平良兼(よしかね)は甥(おい)の将門(まさかど)と戦って敗れたが、940年(天慶3)将門の乱は平定され、興世(おきよ)王は上総で藤原公雅(きみまさ)に誅(ちゅう)された。その後、1028年(長元1)から4年間前上総介平忠常(ただつね)の乱が続き、上総の本田2万2980町歩余は荒廃して、戦乱の終わりごろには18町余に激減したという(『左経記(さけいき)』)。忠常の子孫は上総・千葉両氏となってともに繁栄、1180年(治承4)源頼朝(よりとも)が挙兵するとともにこれを後援した。しかし上総権介(ごんのすけ)千葉(平)広常は頼朝の誤解を招き、1183年(寿永2)鎌倉の営中で暗殺された。守護は、鎌倉初期に千葉広常、後期に足利(あしかが)氏、南北朝時代には佐々木・千葉・新田(にった)・上杉氏、室町時代には上杉氏が務めた。戦国時代に入り、守護代武田氏が真里谷(まりやつ)・庁南(ちょうなん)に拠(よ)り活動、安房の里見氏も上総に進攻した。再度の国府台(こうのだい)合戦以後、上総国の北半はほぼ後北条(ごほうじょう)氏の勢威下にあり、南部は里見氏が勢力を保った。

 1590年(天正18)小田原落城、徳川家康の江戸入り以降は江戸幕府の御膝元(おひざもと)として位置づけられた。支配は譜代(ふだい)小藩、旗本領、代官領が入り交じり、まさしく犬牙錯綜(けんがさくそう)の地を形成した。産業面では九十九里浜が本邦最大の漁場として栄え、上総木綿八日市場木綿などの地木綿の生産もあった。江戸湾では早く紀州栖原(すはら)村(和歌山県有田(ありだ)郡湯浅(ゆあさ)町)の漁夫角兵衛により鯛桂網(たいかつらあみ)が導入され、文政(ぶんせい)年間(1818~30)には近江屋甚兵衛(おうみやじんべえ)による海苔(のり)養殖も行われた。文化面では中・後期から私塾・寺子屋も普及した。荻生徂徠(おぎゅうそらい)も若きころ当地で修学し、伊能忠敬(いのうただたか)のような篤学者も東上総で生まれた。戊辰(ぼしん)の騒乱にあたっては、最後まで官軍に抵抗した小藩請西(じょうざい)藩のことがよく知られる。1871年(明治4)廃藩置県時点、宮谷(みやざく)県ほか15の藩県からなる当国は、木更津(きさらづ)県管下となり、ついで73年6月15日千葉県管下となった。

[川村 優]

『小笠原長和・川村優著『千葉県の歴史』(1971・山川出版社)』『『千葉県史 明治編』(1962・千葉県)』


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藩名・旧国名がわかる事典 「上総国」の解説

かずさのくに【上総国】

現在の千葉県中部(房総半島北部)を占めた旧国名。律令(りつりょう)制下で東海道に属す。「延喜式」(三代格式)での格は大国(たいこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の市原市におかれていた。大化の改新の際、総(ふさ)国の南半を上総国、北半を下総(しもうさ)国に分け、のちに上総国から安房(あわ)国を分離した。桓武(かんむ)天皇の曾孫(そうそん)高望王(たかもちおう)が上総介(かずさのすけ)となって土着してから平氏(へいし)が勢力を占めたが、平忠常(たいらのただつね)の乱で荒廃。のち、その子孫の千葉氏が支配し、源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵を助けた。鎌倉時代守護足利(あしかが)氏、南北朝時代から室町時代は佐々木氏、千葉氏、上杉氏戦国時代には里見氏、次いで後北条(ごほうじょう)氏が支配するが、江戸時代には11藩が分立した。荻生徂徠(おぎゅうそらい)は若き日に当地で修学、伊能忠敬(いのうただたか)のような篤学者(とくがくしゃ)も出た。1871年(明治4)の廃藩置県により木更津(きさらづ)県となったが、1873年(明治6)に印旛(いんば)県と合併し千葉県となった。◇南総(なんそう)ともいう。また下総国と合わせ、総州(そうしゅう)ともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上総国」の意味・わかりやすい解説

上総国
かずさのくに

現在の千葉県の中央部。大国で親王任国。初め総 (ふさ) の国と称した。『古語拾遺』によれば,忌部氏が四国の阿波国から部民を伴い海路ここにいたったとしている。もと武社,菊麻,上海上,馬来田,須恵,伊甚の国造が支配。古くは安房国を含めていたが,養老2 (718) 年分国。天平 12 (740) 年に再び安房を合併,さらに天平宝字1 (757) 年に再度安房国は独立した。国府は市原市市原町,国分寺は同市五井町。『延喜式』には天羽 (あまは) ,周淮 (すえ) ,望陀 (まうた) ,畔蒜 (あひる) ,市原 (いちはら) ,海上 (うなかみ) ,夷しみ (いしみ) ,埴生 (はにふ) ,長柄 (なから) ,山辺 (やまのへ) ,武射 (むさ) の 11郡がみえ,『和名抄』には郷 76,田2万 2846町余が記録されている。東国における古代律令体制への反抗は強く,平将門が下総に立つと同時に上総では平忠常が乱を起し,長元1 (1028) 年には安房国に侵入。朝廷は甲斐国司の源頼信に追討を命じ,忠常をくだしたが,彼の子孫は千葉氏,上総氏としてこの地方に栄えた。鎌倉時代には,初め平広常が,のちには足利氏が守護となり,また南北朝時代には佐々木秀綱が,室町時代から戦国時代にかけては千葉氏,上杉氏,里見氏が領有し,のちに北条氏が支配した。江戸時代には松平氏の大多喜藩,阿部氏の佐貫藩,黒田氏の久留里藩,保科氏の飯野藩,水野氏の鶴牧藩などの小藩に分割。明治4 (1871) 年7月の廃藩置県では各藩が県となったが,同年 11月には安房国の諸県を合併して木更津県となり,さらに 1873年に下総国の印旛県を合せて千葉県となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上総国」の解説

上総国
かずさのくに

東海道の国。現在の千葉県中部。「延喜式」の等級は大国。「和名抄」では市原・海上(うなかみ)・畔蒜(あひる)・望陀(もうだ)・周淮(すえ)・天羽(あまは)・夷灊(いしみ)・埴生(はにゅう)・長柄(ながら)・山辺(やまのべ)・武射(むさ)の11郡からなる。古くは総国(ふさのくに)で,大化の改新ののち上・下に分割されたと思われる。718年(養老2)4郡がわかれて安房国として分立。国府・国分寺・国分尼寺は市原郡(現,市原市)におかれた。一宮は玉前(たまさき)神社(現,一宮町)。「和名抄」所載田数は2万2846町余。「延喜式」では調庸は各種の貲布(さよみのぬの)・鰒(あわび)で,良質の望陀布(もうだのぬの)は珍重され,中男作物は麻・紅花・漆・芥子(けし)・腊(きたい)・鰒など。826年(天長3)以降は親王任国。平安中期には平忠常の乱により荒廃し,その血を引く上総権介平広常が源頼朝に協力した。上総氏の滅亡後は足利氏,室町時代には佐々木・上杉氏などが守護をつとめた。戦国期には里見氏が後北条氏に倒され,同氏が豊臣秀吉に滅ぼされて徳川氏の領国となる。江戸時代には譜代小藩が数多くおかれた。1871年(明治4)の廃藩置県では安房国とともに木更津県となり,73年印旛(いんば)県と合併して千葉県となる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「上総国」の意味・わかりやすい解説

上総国【かずさのくに】

旧国名。東海道の一国。今の千葉県中部。古くは総(ふさ)の国。7世紀後半,上・下に分けた。718年安房(あわ)国を分置,741年併合,757年再分置。《延喜式》に大国,11郡。826年以後,国司の守(かみ)は親王を任ずることとしたが,介(すけ)の千葉氏が実権を握る。中世,上杉・武田・里見氏らが勢力を伸張。近世,本多氏らに分封後は小藩と幕府領・旗本知行地の錯綜状態。→平忠常
→関連項目関東地方千葉[県]藻原荘

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