日本歴史地名大系 「名瀬市」の解説 名瀬市なぜし 面積:一二七・五〇平方キロ(境界未定)大島の北東部に位置する。北部は東シナ海に面し、南部は太平洋に臨み、東部は大島郡龍郷(たつごう)町、西部は同郡大和(やまと)村・住用(すみよう)村と接する。南西部の松長(まつなが)山(四五五・二メートル)をはじめ標高三〇〇―四〇〇メートル級の山嶺が連なり、これらを水源とする大(おお)川が太平洋に注ぎ、北部では芦花部(あしけぶ)川・浦上(うらがみ)川・新(しん)川・知名瀬(ちなせ)川などの小河川が東シナ海に流入する。国道五八号により住用村・龍郷町に通じるほか、主要地方道の名瀬―瀬戸内(せとうち)線などが通る。〔原始・古代〕七〇ヵ所を超える遺跡が分布するが、縄文時代後期相当期の遺跡では、知名瀬の城田(ぐすくだ)遺跡および小湊の中金久(こみなとのなーがねく)から嘉徳式・面縄東洞式などの土器や石器が出土している。弥生時代から古墳時代に相当する時期の遺跡では、小宿(こしゆく)の大浜(おおはま)遺跡および小湊の長金久(ながかねく)遺跡から、本土から搬入された弥生土器や在地の土器・食料残滓が出土している。古墳時代から平安時代相当期の遺跡では小湊の外金久(ふわがねく)遺跡があり、長金久遺跡を合せて約二万平方メートルに及ぶもので、奄美大島で最大の規模と考えられる。古手の兼久式土器の大量の出土、種々の貝製品・広田上層タイプの貝札、鉄滓・鉄製品などが出土しているほか、貝殻・獣骨・魚骨などの食料残滓も膨大な量になる。〔グスク時代〕本州・九州などとの交流は、奄美が大和政権の派遣した遣唐使船の停泊地であることから九世紀末までみられたが、それが廃されると衰退していったようである。のちアジ(按司)と称される勢力が割拠し、グスクを築いて対立したとされる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報