嘉陽村(読み)はようむら

日本歴史地名大系 「嘉陽村」の解説

嘉陽村
はようむら

[現在地名]名護嘉陽かよう

久志くし間切の東寄りに位置し、西は安部あぶ村。ハヨーともいう。北の一五〇メートル内外の海岸段丘丘陵を刻んで嘉陽かよう川が集落の西側を流れる。集落は丘陵に囲まれた海岸の砂洲上の砂地に碁盤目状の形をなして立地する。集落は上城ういぐしくからハヨー(嘉陽原)を経て、現在の場所に移動したと考えられる。間切所属の変遷は大浦うぷら村と同じ。絵図郷村帳に名護なぐ間切「かやう村」とみえる。琉球国高究帳でも同様に記され、高頭一〇五石余、うち田一〇一石余(うち永代荒地二二石余)・畠三石余。「琉球国由来記」「琉球国旧記」では嘉楊村・嘉揚村と記されるが、「中山伝信録」や乾隆二年帳では嘉陽村と表記される。「琉球国由来記」にみえる浜板敷嶽(神名ソノイタジキノ御イベ)、嘉楊城嶽(神名アカウヅカサノ御イベ)および嘉楊城火神・嘉楊巫火神・神アシアゲは嘉楊ノロの管轄。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

新暦の 4月後半から 5月の,梅雨前に日本列島が大きな移動性高気圧に覆われたときの晴天。発現期間は短い。もともとは旧暦 5月が梅雨にあたることから,梅雨の晴れ間の意味で,梅雨晴れ(つゆばれ)とも呼ばれ...

五月晴れの用語解説を読む