沖縄本島北部にある市。1970年(昭和45)名護町と屋部(やぶ)、羽地(はねじ)、屋我地(やがじ)、久志(くし)の4村が合併して市制施行、1993年(平成5)地方拠点都市地域に指定された。方音ナグ。全体に山地状の地形をなし、脊梁(せきりょう)部には多野(たの)岳、名護岳、久志岳があり、開析された段丘が東海岸に迫っている。西方は、名護―羽地間の断層低地になり、さらに本部(もとぶ)の山地に続き、八重(やえ)岳や嘉津宇(かつう)岳が本部町との境界にある。かつて、名護の七曲(ななまが)りと称せられた道は、沖縄海洋博覧会(1975)後は整備され国道58号となった。東海岸への横断道路や沖縄自動車道などの起点で、国道329号、331号、449号も通る交通の要地。旧名護町は名護城(なんぐすく)をその発祥とし、600年の歴史をもつ町で、古くから北部の中心であった。明治に入り、国頭(くにがみ)地方役所が羽地の新川(あらかわ)から名護に移ったことが、北部の中心地として発展する契機となった。名護―那覇間の定期航路が開設され、1915年(大正4)には県道が開通。さらに、昭和初期に中学校、女学校が創設され中心性を強めた。国・県の出先機関が集中し、さらに商店や事業所が立地する市街地を形成している。旧羽地村の低湿地帯は、往時の政治家蔡温(さいおん)(1682―1761)の指揮のもとに羽地川の改修が行われ、水田地帯として知られたが、現在、畑地化が進んでいる。屋我地島の我部(がぶ)海岸では第二次世界大戦後まで製塩が行われていた。セメント・製糖業・ビール会社などの工業も立地。名所として、名護城跡、ひんぷんガジュマル(樹齢約300年、国指定天然記念物)などがある。面積210.94平方キロメートル、人口6万3554(2020)。
[堂前亮平]
『『名護市史』本編1~11、資料編1~5、別巻(1981~ ・名護市)』
沖縄県,沖縄島(本島)中部にあり,1970年名護町と屋部(やぶ),羽地(はねじ),屋我地(やがじ),久志(くし)の4村が合体,市制。人口6万0231(2010)。市域は本部(もとぶ)半島基部から太平洋岸まで広がり,半島基部北側の羽地内海をへだてて浮かぶ屋我地島(面積7.7km2)を含む。東部には多野岳(385m),名護岳(345m)などの国頭(くにがみ)山地があり,北西部に八重岳(453m),嘉津宇(かつう)岳などがあって,山林が市域の半分以上を占める。半島基部南側の名護湾にのぞむ旧名護町を中心に発展した広域都市で,市街地は古くから〈山原(やんばる)〉とよばれる国頭地方の行政・経済・交通の中枢の地として発達し,国道58号,329号,449号線が通じる。沖縄自動車道の許田(きよだ)インターチェンジがある。古くは米どころであったが,現在は平地でサトウキビ,野菜,花卉,山地でパイナップル,かんきつ類などが栽培され,羽地を中心に養豚,養鶏が盛んである。漁業は名護漁港および羽地内海の仲尾次(なかおし)漁港を中心に近海漁業などが行われる。またセメント,ビール,製糖,パイナップルなどの工場が立地する。海岸は沖縄海岸国定公園に指定され,とくに名護湾に突出する部瀬名岬(ぶせなざき)には海中展望塔があり,海中公園地区となっている。1994年に名桜大学が開設され,沖縄島北部の文化と教育の核として期待されている。市街地東方,名護湾を望む丘上にある名護城は,14世紀ころ今帰仁(なきじん)城主の弟が名護按司(あじ)として封じられたのに始まるといい,城跡は1月末から咲く緋寒(ひかん)桜の名所として知られ,また数久田(すくた)川上流には高さ30mの轟ノ滝がある。
執筆者:田里 友哲
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