国友庄(読み)くにとものしよう

日本歴史地名大系 「国友庄」の解説

国友庄
くにとものしよう

現市域北部のあね川流域、国友町・いま町・下之郷しものごう町付近に比定される。建永元年(一二〇六)の慈円起請文(門葉記)に「桜下門跡庄薗」の一つとして「国友庄近江国」とみえ、延暦寺同門跡領の「基本」とされたが、違乱によって返付されていなかった。「興福寺官務牒疏」には「真源寺、同坂田郡国友郷、僧房八宇」とみえ、寛和元年(九八五)の空晴大師開基とある。建長五年(一二五三)の近衛家所領目録(近衛家文書)に、鳥羽院の時代に高陽院(藤原忠通)が庄号を立てたと記され、文明一〇年(一四七八)に至っても「大番々米」を近衛家へ出していた(雑事要録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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