朝日日本歴史人物事典 「宮部継潤」の解説
宮部継潤
生年:生年不詳
安土桃山時代の武将。善祥坊,中務卿法印。土肥真舜の子。近江国浅井郡宮部(滋賀県東浅井郡)に生まれる。はじめ湯次神社の社僧であったが,のち浅井長政に仕える。元亀2(1571)年10月に,羽柴(豊臣)秀吉の誘いに応じて織田信長に下り,浅井氏と戦う。その後,秀吉の中国征討に参加。天正9(1581)年10月因幡鳥取城代となる。信長の死後は秀吉に仕え,同15年九州征討に参加,4月日向高城に島津家久の軍を撃退。同17年12月には因幡・但馬に5万石を与えられている。同18年,小田原攻めに参加。同年11月,家督を子長煕に譲る。文禄1(1592)年の朝鮮出兵に際しては肥前名護屋に参陣。長煕がこれに代わり渡海した。慶長1(1596)年12月,鳥取城を長煕に譲るが,その後も秀吉の奉行衆として活躍。晩年は秀吉の御伽衆となる。また五大老と共に政務にも参与した。同3年秀吉の遺物金30枚を受領。<参考文献>日置粂左ヱ門「豊臣政権と鳥取城主宮部継潤」(『鳥取市史研究』6号)
(長谷川弘道)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報