改訂新版 世界大百科事典 「宮部継潤」の意味・わかりやすい解説
宮部継潤 (みやべけいじゅん)
生没年:?-1599(慶長4)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…80年および翌81年の2回にわたる豊臣秀吉軍の攻撃を受けて鳥取城は落ち,若桜鬼ヶ城矢部氏以下の国人・土豪層もそのほとんどがこの過程で没落した。秀吉はすでに国外に亡命していた山名豊国にかえて,腹心の宮部継潤を鳥取城に入れ,高草・八上・邑美・法美4郡4万3000余石を知行させた。また,気多郡1万3000余石を鹿野城主亀井茲矩(これのり),智頭・八東2郡2万石を若桜鬼ヶ城木下重賢,そして巨濃郡1万石を浦富桐山城垣屋光成にそれぞれ与え,宮部継潤を惣頭領として国中の成敗をとりしきらせた。…
…鳥取城は80年と翌年の2回にわたる羽柴(豊臣)秀吉軍の攻撃を受けて落ちたが,この城の占める政治的・軍事的位置の重要性が鳥取なる地名を定着させたものといえよう。【井上 寛司】 1581年に秀吉が鳥取城を攻略した後,但馬豊岡から城主として移封した宮部継潤(けいじゆん)は,上美(うわみ)(邑美),法美,八上,高草の4郡計4万3600石と但馬国二方郡7370石の合計5万0970石を領知し,城郭を強化し城下町を整備した。しかし継潤は秀吉に従って鳥取不在のことが多く,その養子長熙(ながひろ)(元房)が領内を取りしきった。…
…因幡国鳥取(久松山)城主支配下の藩。1581年(天正9)再度の鳥取城攻略により,因幡国の大半を支配下に収めた羽柴(豊臣)秀吉は,織田信長の死後みずからの部将宮部継潤を鳥取城主とし,上美(うわみ)(邑美),法美,八上,高草の4郡,4万3000余石を支配させた。宮部氏は2代長熙まで在城したが,実質的には秀吉の国内統一戦争などに従うことが多く,領内統治について知られることは少ない。…
…豊臣秀吉の九州出馬によって22代大友義統(吉統)(よしむね)は豊後1国を安堵されたが,93年(文禄2)の文禄の役で失敗し改易され,大友氏の豊後支配は幕を閉じた。【佐藤 満洋】
【近世】
[所領配置]
義統の除国後,豊後一国は太閤蔵入地となり,検地奉行山口宗永,宮部継潤(けいじゆん)によって検地が開始された。山口は大分郡府内来迎寺に本拠を置き,大分,海部(あまべ),大野,直入(なおいり)の南4郡を,宮部は国東郡高田城と速見郡木付城に交座して,国東,速見,日田,玖珠の北部4郡を担当。…
※「宮部継潤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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