日本大百科全書(ニッポニカ) 「国栖奏」の意味・わかりやすい解説
国栖奏
くずそう
古代部族「国栖」の歌舞。『日本書紀』応神(おうじん)天皇19年には、吉野行幸のおりに、その地の土着民、国栖が献上物を持って訪れ、歌を詠み終わって口を打ち仰ぎ咲(わら)うさまが記されているほか、『古事記』にも「口鼓(くちつづみ)を撃(う)ち伎(わざ)を為(な)し」たとある。吉野国栖のこの独特の所作は、後の豊明節会(とよあかりのせちえ)をはじめとする諸節会に参勤して奏された国栖舞、あるいは国栖奏ともいわれる風俗歌舞の起源を示すものであろう。国栖奏は、大嘗祭(だいじょうさい)、諸節会などの朝廷の大儀に重要な役割を果たすようになったが、国栖のなかには平安時代になると山城(やましろ)国(京都府)綴喜(つづき)郡に移住させられた者もあった。摂関政治の時代に入ると、しだいに国栖の参勤がとだえ、12世紀なかばには楽所(がくそ)の楽人が代奏を勤めるようになったが、室町時代以降はこれも行われなくなり、国栖奏は廃絶した。今日、昭和初年に雅楽の多忠朝(おおのただとも)がまとめたといわれる国栖奏が、奈良県吉野郡吉野町浄見原(きよみはら)神社の旧1月14日の例祭に行われている。
[高山 茂]