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雅楽 ががく

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

雅楽
ががく

古代中国に発生した儀式音楽で,歌や舞を伴う器楽合奏曲。中国から東アジア王朝国家に伝えられたが,今日中国では衰滅してしまい,おもに日本と朝鮮においてその伝統を保ちつつ独自の発展をとげている。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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知恵蔵の解説

雅楽

日本古来の古楽に大陸から渡来した音楽や舞いが加わって融合した芸術で、10世紀頃完成し、皇室の保護の下で伝えられてきた。神楽、久米舞、五節(ごせちの)舞など国風(くにぶり)の歌舞、中国系の唐楽、朝鮮系の高麗(こま)楽などがある。宮内庁楽部では、重要無形文化財保持者の楽師(がくし)が、宮中の儀式、宴会、春・秋の園遊会で演奏し、定期演奏会では、一般の希望者も抽選で招待している。

(岩井克己 朝日新聞記者 / 2007年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」
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デジタル大辞泉の解説

が‐がく【雅楽】

古代の中国で、庶民的な俗楽に対し、貴族的な雅正な楽。宮廷の儀式、祭祀(さいし)などに用いられ、12世紀初めに朝鮮半島にも伝わった。
奈良・平安時代に完成し、宮廷・寺社などで行われた音楽。また、それによる舞。1を輸入したものとそれを模したもの(唐楽高麗楽(こまがく)など)、外国渡来の楽器を伴奏とする新しい声楽曲(催馬楽(さいばら)朗詠など)、日本固有の歌舞(神楽東遊(あずまあそ)びなど)の三つに大別される。

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百科事典マイペディアの解説

雅楽【ががく】

音楽の一種目。中国では天地,祖先をまつる古代の儀礼の宗教音楽として儒教思想と結びついて発達,朝鮮などに伝わったが,19世紀後半にはすたれた。日本の雅楽は時代によりその内容は一定しないが,現在では,1.神楽(かぐら),大和舞などの日本固有の歌舞,2.5世紀から9世紀末までに中国や朝鮮などから伝来した舞と音楽(その様式により日本で新作されたものを含む),3.平安時代の貴族により新しくつくられた催馬楽(さいばら),朗詠(ろうえい)などの芸術歌曲を総称する。
→関連項目燕楽大歌大槻如電雅楽寮迦陵頻教訓抄五節舞菅掻体源抄太平楽チャンゴ(杖鼓)チョンアク(正楽)日本音楽篳篥ヒャンアク(郷楽)松平頼則

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日本文化いろは事典の解説

雅楽

雅楽とは、日本古来の音楽や舞、平安時代に新しく作られた歌曲を含めた総称を言います。身近なものであれば、神前結婚式や正月などに奏でられるもで、その分類には、「管絃」「舞楽」「歌曲」「国風歌舞〔くにぶりのうたまい〕」といったジャンルがあり、平安貴族にとって雅楽は最高の遊びのひとつで、また当時の天皇も雅楽を楽しんでいました。

出典|シナジーマーティング(株)
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世界大百科事典 第2版の解説

ががく【雅楽】

古代以来もっとも長い歴史をもつ東アジアの音楽。中国で成立し,朝鮮,日本,ベトナムなどの王朝国家に伝えられ,主として国家的制度のもとで管理,伝承されてきた。中国の雅楽は,〈雅正の楽〉の意で俗楽に対立し,儒教の礼楽思想に基づいて成立,発展したために狭義には天地宗廟の祭祀楽を意味するが,広義には国家,宮廷の儀式や宴饗の楽も含める。狭義の雅楽は古来の雅楽器を用い,堂上登歌(どうじようとうか),堂下楽懸(どうかがくけん)の2種の楽を奏し,八佾(はちいつ)の舞を舞うという一定の形式を有する。

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大辞林 第三版の解説

ががく【雅楽】

〔雅正の楽の意〕
奈良時代に朝鮮や中国などから伝来した音楽、およびそれに伴う舞。また、それを模倣して日本で作られたもの。右楽うがくと左楽さがくに大別される。舞を伴わないものを管弦、舞のあるものを舞楽という。神楽・東遊あずまあそび・久米舞くめまい・催馬楽さいばら・朗詠などを含めてもいう。宮廷音楽として平安時代に栄え、寺社でも演奏された。正楽せいがく

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

雅楽
ががく

古代中国を起源とし日本、朝鮮、ベトナムなどに広く伝わった音楽。「雅正の楽」の意で、国家の荘厳(しょうごん)をなすために用いられ、民衆の間で親しまれる「俗楽」と区別される。宮廷・寺社の儀礼・祭礼における正式な音楽で、大規模な楽器編成をもち、歌舞を伴うことが多い。中国の文化的・思想的影響のもとに各国で独自の分野がつくられ、それぞれの民族固有の楽器も使用される。現在中国では衰滅し、その他の国で伝承されている。[橋本曜子]

中国と朝鮮の雅楽


中国の雅楽
狭義には儒教思想に基づく天地宗廟(そうびょう)のための祭祀(さいし)の楽を意味し、広義にはこれに宮廷の娯楽用の楽である宴饗楽(えんきょうがく)を含む。
 雅楽の名称は春秋時代に孔子(前552―前479)が、鄭(てい)・衛国の音楽を鄭声(ていせい)、舜(しゅん)帝や周の文王・武王の作といわれる音楽を雅声と称し、とくに後者を尊んだことに始まる。伝説には周の文王・武王のとき(前12世紀)すでに文武の舞が定められ、六律六呂(りくりつりくりょ)、五声八音六舞をもって大合奏をしたという。戦国時代になると、諸子百家争鳴のなかで儒家が礼を尊び仁を最高の徳とする礼楽思想を唱え、これを思想的に表現する正統な音楽として雅楽を位置づけた。当時は祖先を祀(まつ)る「廟祭(びょうさい)楽」、天地自然の神を祀る「郊祀(こうし)楽」、朝廷の娯楽用の「宴饗楽」の3種があり、楽器は琴(きん)・鐘(しょう)・瑟(しつ)・磬(けい)・管(かん)・籥(やく)・笙(しょう)(ち)・缶(ふ)(ぎょ)・鼓(こ)など約20種を用いたという。これらの楽器は儒教の陰陽五行説と結んで、宇宙を構成する八つの要素、金・石・絹・竹・匏(ふくべ)・土・革・木という分類に従って、各材質により八つに分けられた。これを「八音」という。秦(しん)の始皇帝は文教統一政策をとり雅楽はいったん停滞したが、続く漢代では前漢の高祖(在位前206~前195)が周制の宗廟祭祀の楽を復興するとともに太楽(たいがく)署という雅楽を担当する機関を設け、雅楽は制度的にも確立された。以後代々の皇帝が楽曲の補充と整備に努め、後漢(ごかん)の章帝(在位75~88)は郊祀楽として、黄帝・堯(ぎょう)帝・舜帝ら6帝王の徳をたたえる「六代の楽」を制定した。このころには周伝来の各種の楽器に新しく西方伝来の琵琶(びわ)、箜篌(くご)などを加え、全部で約30種の楽器が使われ、周制では独立していた歌舞が器楽とともに演じられるようになった。三国時代から晋(しん)・南北朝・隋(ずい)時代は政情が不安定で、雅楽の発展はみられない。南朝宋(そう)では武帝(在位420~422)、文帝(在位424~453)、孝武帝(在位453~464)らが雅楽の復興を企て、隋では牛弘が589年に宋・斉(せい)両朝の雅楽を採用したが効果は少なく、むしろ国家変動に乗じて伝来した西域(せいいき)楽・朝鮮楽と中国の俗楽が融合した宴饗楽(後の燕(えん)楽)に進展がみられ、宮廷で重んじられた。
 雅楽が国際的な音楽として内容を充実させたのは唐時代である。唐代の雅楽には、国家行事に用いられる宴饗楽(狭義の雅楽)、宮廷の娯楽として北方東胡(こ)民族の音楽を取り入れた胡楽、漢以来中国固有の俗楽があった。日本にはこの唐代の俗楽が雅楽として伝わったといわれる。初代高祖(在位618~626)は626年『予和』『順和』『永和』など12の曲を集めた「十二和の楽」を制定し(「大唐雅楽」という)、玄宗(在位713~755)は718年これにさらに『械和』『豊和』『宣和』の三和を加えて大成した。この雅楽を唐代最高峰のものとしてとくに「開元雅楽」という。元代の書『文献通考』によれば、この雅楽は「堂上登歌(とうか)」と「堂下楽懸(がくけん)」が交替して行われるもので、前者は歌を主体に器楽合奏のついたもの、後者は総勢300人余りも要する舞と器楽の融合したものであったという。このうち堂下楽懸が朝鮮に下賜され、現在朝鮮の雅楽はこの古制を伝えていると考えられる。また隋の楽官、鄭訳(ていやく)(540―591)が考案した七声十二律八四調の理論が、唐代では胡楽・俗楽の調名を十数個取り入れた形で新たに完成された。これは、一つの調は一定の七音音階からなる「律」というもので規定されるとするもので、すべて「律」の階名は宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・変徴(ち)・徴・羽(う)・変宮を基本とする。一つの律に対して各音を主音としてつくられた宮調・商調・角調などの調がつねに7通り成り立ち、十二律に対してその7倍の八四調が成り立つという理論である。その一部が日本に伝わり雅楽の「六調子」となった。
 唐代の「十二和」は、五代十国時代には「十二順」、宋代には「十二安」と読み替えられ、『高安』『理安』『静安』など曲名と内容が一新された。また胡楽・俗楽は一括して燕楽と称され、狭義では明らかに雅楽と区別されるようになった。宗廟の祭祀にはしばしばこれら燕楽が歌舞とともに奏された。北宋の神宗(在位1067~1085)は新しい雅楽として「大晟楽(たいせいがく)」を制定、のちにはこれを教習する大晟楽府も設立された。北・南宋は雅楽研究の進んだ時代でもあり、勅選の楽書が編まれたほか、南宋の蔡元定(さいげんてい)は『燕楽書』や『律呂新書』を著した。とくに音律に関する議論が盛んで、実際に律を改定したり、阮琴(げんきん)などそれにあわせた新楽器が考案されたりした。北方民族の建国した元代にはフビライ・ハンが雅楽を試みるが定着せず、明(みん)代初年になって「太楽」「郊祀の楽」が制定(1368)され、ふたたび漢民族の伝統につながる雅楽が整えられた。清(しん)代には多くの楽曲を清朝風に改作し、文武の舞も整えられた。しかしアヘン戦争(1840~1842)後政情不安定が続き、1912年、清朝滅亡と同時に宮廷雅楽は衰滅、さらに儒教排斥の新文化運動の波が広がると、各地の孔子廟雅楽も次々と廃絶された。現在では台湾に清代初めに移された孔子廟祭祀の楽が残るのみである。[橋本曜子]
朝鮮の雅楽
他の民俗音楽と区別して「正楽(せいがく)」ともいう。狭義には文宣王(ぶんせんおう)廟(略して文廟)という中国から伝来した孔子廟の祭祀の楽を、広義にはそれに俗楽・宴楽・軍楽を加えた李(り)王家に伝わる宮廷音楽全体をさす。俗楽はさらに宗廟の祭楽と宮中の宴礼に用いる法楽からなる。文廟の祭楽は中国の古制に従い春秋の二季に行われ、宗廟の祭楽は宗廟をはじめ先農・社稷(しゃしょく)・永寧殿など各種の祭祀に行われる。いずれの祭楽においても楽器編成の異なる2種の楽、軒架(けんか)楽と登歌(とうか)楽が交互に繰り返され、文武の(いつぶ/いつまい)が舞われる。楽器はそれぞれの楽について編鐘(へんしょう)・編磬(へんけい)(ひちりき)(くん)(ち)・拍(はく)(しゅく)(ぎょ)など14~15種類が用いられ、演奏者は歌を担当する人々とともに所定の位置に配置される。舞は中国伝来の群舞で、6列6行36人で舞う「六の舞」と、8列8行で舞う「八の舞」がある。宮中の宴礼楽である法楽は、編鐘・特鐘・編磬・特磬・笙(しょう)・琵琶(びわ)・洞簫(とうしょう)など20種以上の楽器が用いられ、宋から伝来したものや、李朝の太宗・世宗・純祖のときつくられたものなど42曲がある。高麗(こうらい)朝伝来の『太平春之曲』、李朝世祖のときの『表正万方曲』などは、それぞれ「本令」「霊山会相」などという俗称でよばれ、しばしば演奏されている。
 朝鮮では三国時代より中国音楽を盛んに摂取した。とくに漢や北方民族と地理的に接触している高句麗(こうくり)は直接それらの影響を受け、新羅(しらぎ)の音楽はもっとも民族色の濃いものとなった。百済(くだら)・新羅・高句麗の音楽は隋・唐に献上されたほか、三韓楽と総称されて日本に伝わった。中国の雅楽が初めて伝わったのは高麗(こうらい)朝である。1106年睿(えい)宗文孝王(在位1105~1122)のとき、宋の雅楽の一種である「大晟楽」が伝わり、音楽をつかさどる官署として太楽署(典楽署とも)が設けられた。これを狭義の雅楽、宋の俗楽と新羅統一時代の宮中宴楽をあわせたものを唐楽、古来の朝鮮音楽を郷楽(ヒァンアク)として、この三者の鼎立(ていりつ)が李朝まで続いた。忠烈王(在位1274~1308)は中国から祭器・楽器を積極的に摂取し、恭愍(きょうびん)王(在位1351~1374)は、蒙古(もうこ)襲来により衰滅しかけた雅楽を明の太祖に楽器や楽人を請うて1370年に再興するなど、歴代の王は宮廷音楽の整備に力を尽くした。高麗朝470年間は、中国が唐・宋・元・明と変遷する一方で国情は安定し、吸収した雅楽を朝鮮独自のものにつくりかえた時代と考えてよい。
 李朝では、太宗(在位1400~1418)が明の音楽の移入と整理に努め、雅楽・俗楽・宴楽・軍楽の制が完備された。4代世宗(在位1418~1450)の時代になると、朴(ぼくせん)(1377―1458)を中心として一連の改革がなされ、李朝雅楽が確立した。朴は新羅より伝承される古楽や宋伝来の宴饗楽、唐代の雅楽を研究し、かつ朝鮮のものとして集大成し、雅楽をつかさどる機関として掌楽院を設けて制度化した。この時期には楽器の改良が企てられたり、『定大業』『竜飛御天歌』などの新作がつくられたり、また「井間譜(せいかんふ)」という東洋最古の定量楽譜が考案されるなど、一連の改良がなされた。成宗康靖王(在位1469~1494)の1493年には、朝鮮最高の楽書といわれる『楽学軌範』全9巻3冊が編集された。16~17世紀にかけては日本の侵略(文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役)、女真族の侵入(丙子胡(こ)乱)が続き李王家の国力は衰えた。そのなかで、高宗(在位1863~1907)は掌楽院を掌楽課と改め、純宗(在位1907~1909)は古制にのっとり大規模な宮廷音楽の復興を企てたが成果は乏しかった。1910年の韓国併合以後は、日本の政略によって日本文化が強制され、李王家雅楽は滅亡に瀕(ひん)した。
 第二次世界大戦後、日本から独立すると、南北問題が生じ、朝鮮は南北に二分された。北朝鮮では新しい国家建設のため伝統音楽に対して批判的な態度がとられたが、韓国(大韓民国)では雅楽を中心に伝統音楽を総じて「国楽」と称することとし、その保護育成のために1951年、李王家に属していた雅楽部を母体として韓国国立国楽院が発足した。1950年代からは大学でも国楽研究が盛んとなり、雅楽は文廟・宗廟の祭礼など本来の伝統的な行事で演奏されるほか、さまざまな研究機関で他の民俗音楽とともに教習されている。[橋本曜子]

日本の雅楽


 日本の雅楽は、古来より宮廷で育成された正統な音楽という意味で、現在宮内庁楽部で演奏される伝統音楽の諸種目をさし、狭義にはそのうち中国・朝鮮より伝来した大陸系のものをさす。伊勢(いせ)神宮や大阪の四天王寺など各地の社寺にも固有の伝承があり、また民間芸能と結び付き多様な形でも見受けられる。[橋本曜子]
雅楽の分野とその楽器編成

神道系のもの
神楽(かぐら)・東遊(あずまあそび)・大直日歌(おおなおびのうた)・倭歌(やまとうた)・大歌(おおうた)・久米歌(くめうた)・誄歌(るいか)。古来より神の招魂・鎮魂を祈願して行われる神道(しんとう)の儀礼に用いられるもの。天皇即位式典の久米歌、春分の日の皇霊祭に行われる東遊など、宮中の特定の儀礼において非公開で奏されることが多い。神楽は里神楽と区別して御神楽(みかぐら)ともいう。神楽歌・東遊歌などと称していずれも特定の歌詞を歌い、葬儀に用いる誄歌を除いてはすべて倭舞(やまとまい)・久米舞(くめまい)などと称する舞を伴う。楽器編成は原則的に神楽笛あるいは竜笛(りゅうてき)・篳篥(ひちりき)・和琴(わごん)・笏拍子(しゃくびょうし)各1人で、日本在来の神楽笛・和琴・笏拍子を用いることに特色がある。篳篥・神楽笛(または竜笛)は歌の旋律に沿って演奏する。[橋本曜子]
大陸系のもの
唐楽(舞楽と管絃(かんげん))・高麗楽(こまがく)(舞楽のみ)。5世紀より日本に伝来したさまざまな大陸の音楽は、9世紀なかばに唐楽・林邑楽(りんゆうがく)など中国系の音楽を主体とする唐楽と、三韓楽・渤海楽(ぼっかいがく)など朝鮮系の音楽を主体とする高麗楽に整理統合され、その2分野が今日まで踏襲される。現在唐楽は約80曲、高麗楽は約20曲ある。唐楽・高麗楽とも舞を伴う「舞楽」を主体とするが、唐楽には純粋な器楽合奏である「管絃」の演奏形態がある。
 舞楽においては唐楽・高麗楽はそれぞれ左方の楽・右方の楽と称され、面、舞装束、舞人の登退場の方法、楽器編成などすべてにわたって対照をなすよう細かな取決めがある。舞台後方に座す楽器奏者(管方(かんかた))も本来左右に分かれて配置されたのであり、客席の正面から見て左舞(さまい)は左方の楽によって左から、右舞は右方の楽によって右から登場するのが決まりである。そして左舞・右舞を交互に演ずるのを「番舞(つがいまい)の制」という。『陵王(りょうおう)』と『納曽利(なそり)』、『迦陵頻(かりょうびん)』と『胡蝶(こちょう)』など、内容上対(つい)をなすような組合せが決まっており、2曲続けて上演される。実際の番組では、舞台を浄(きよ)めるために「振鉾(えんぶ)」の舞がまず左右の舞人で舞われたのち、「番舞」が数番重ねられ、散会の合図に『長慶子(ちょうげいし)』が演奏される。各楽曲は、舞人が登退場するための前奏・後奏曲を伴って演奏されるのが普通である。これに対し本来の曲を「当曲(とうきょく)」という。たとえば唐楽『陵王』の場合は、管方により「小乱声(こらんじょう)」が奏されたのち、「乱序(らんじょ)」によって舞人が登場し、「囀(さえずり)」という無伴奏で始まる舞が舞われて、「音取(ねとり)」「当曲」が演奏され、「安摩(あま)乱声」で退場する。楽器編成は、唐楽では三管三鼓と称し、篳篥・竜笛(横笛(おうてき)とも)・笙(しょう)、および太鼓・鉦鼓(しょうこ)・鞨鼓(かっこ)を用いるのに対し、高麗楽では篳篥・高麗笛(こまぶえ)、および太鼓・三ノ鼓(さんのつづみ)を用いる。このうち合奏の中心となる旋律を受け持つのは篳篥と笛(竜笛または高麗笛)である。
 また舞楽は、舞の動きの特徴から次のように分類される。(1)平舞(ひらまい) 列をつくって優雅に舞うもの。『万歳楽(まんざいらく)』『仁和楽(にんならく)』など。(2)走舞(はしりまい) 舞台上を活発に跳躍するもの。『陵王』『納曽利』など。(3)武舞(ぶのまい) 楯(たて)などの武具を用いるもの。『太平楽(たいへいらく)』など。(4)文舞(ぶんのまい) 武具を用いないもの。『春鶯囀(しゅんのうでん)』など。ただしほとんどの平舞は文舞なので、通常この両者は区別しない。このほか、本来子供によって舞われる「童舞(わらわまい/どうぶ)」(『迦陵頻』など)がある。また『陵王』など、本来は大人用の舞でも、直面(ひためん)で童舞として舞われることもある。
 管絃は舞を伴わない純粋な器楽合奏で、広義にはこれと同時に演奏される催馬楽(さいばら)や朗詠(ろうえい)も含む。平安時代中期貴族の御遊(ぎょゆう)において考え出されたもので、元来、呂(りょ)調と律調の曲を交互に演奏し、その間に催馬楽・朗詠を歌ったという。管絃でも、「当曲」を奏する前にその曲の調子を示す「音取」や「調子」という短い曲を奏するのが普通で、これには「音頭(おんど)」とよばれる各楽器の主奏者があたる。また舞楽では拍節感を明確に出して奏するのに対し、管絃では各楽器の特色を出し技巧を駆使するため丹念に間合いを計って奏する。前者を「舞楽吹き」、後者を「管絃吹き」と称する。また管絃には「残楽(のこりがく/ざんがく)」という特殊な奏法がある。これは楽曲を数回反復する間にしだいに楽器の数を減らしていくもので、最後は篳篥が元の旋律を断片的に奏し、そのなかを箏(そう)が「輪説(りんぜつ)」と称する技法を即興的に入れながら独奏して終わる。『越天楽(えてんらく)』などでしばしば行われ「残楽三返」「残楽五返」が通例。楽器編成は、舞楽の編成に琵琶・箏の二絃を加えたもの。「三管立て」と称し篳篥・竜笛・笙各3人、琵琶・箏各2人、太鼓・鉦鼓・鞨鼓各1人というのが正式の形で、そのほか管楽器の人数により「二管立て」「一管立て」がある。[橋本曜子]
平安時代の歌曲
催馬楽・朗詠。催馬楽は諸国からの貢物を負わせた馬を「駆り催す」歌が語源ともいわれ、地方の馬子唄(まごうた)や俗謡を器楽伴奏で歌う。朗詠は漢詩文の詠唱で、両者とも舞はない。現在催馬楽は『更衣(ころもがえ)』『席田(むしろだ)』など6曲、朗詠は『東岸(とうがん)』『春過(はるすぎ)』など14曲残っている。催馬楽に用いる楽器は唐楽の三管二絃に笏拍子(しゃくびょうし)、朗詠は三管1人ずつでより声楽本位となっている。[橋本曜子]
調子と拍子
中国の音楽理論を導入し日本化された雅楽の理論、とくに調子と拍子の理論は後の日本音楽の規範となった。十二律の音名は、盛唐の唐古律に基づき基音をdとして、壱越(いちこつ)・断金(たんぎん)・平調(ひょうじょう)・勝絶(しょうせつ)・下無(しもむ)・双調(そうじょう)・鳧鐘(ふしょう)・黄鐘(おうしき)・鸞鏡(らんけい)・盤渉(ばんしき)・神仙(しんせん)・上無(かみむ)。階名は宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う)の五声とそれに変徴・変宮を加えた七声である。雅楽の調子には律と呂という二つの音階があり、それぞれの宮音(主音)の音名によって、律には平調(ひょうじょう)・黄鐘調(おうしきちょう)・盤渉調(ばんしきちょう)、呂には壱越調(いちこつちょう)・双調(そうじょう)・太食調(たいしきちょう)があるとする。これらを「雅楽の六調子」という。高麗楽には高麗壱越調・高麗平調・高麗双調があるが、高麗笛が竜笛よりすこし短いため唐楽の同名の調子より長2度ずつ高い。このうち高麗平調・高麗双調はあわせて4曲しかなく、ほとんどが高麗壱越調である。実際には篳篥と竜笛の使用音は理論どおりではなく、とくに下無(嬰(えい)ヘ)と上無(嬰ハ)を含む旋律では、篳篥はグリサンド奏法の「塩梅(えんばい)」、竜笛は下無(嬰ヘ)と勝絶(ヘ)の中間の不安定な音を多用して、音高の固定した笙・琵琶・箏と音高が部分的に擦れ合うこととなる。旋律はこれらの装飾音を含んだ一定の旋律型の組合せからなり、旋律型は各調子に共通して用いられる。雅楽には「渡物(わたしもの)」という一種の移調曲があり、盤渉調『越天楽』に対して平調・黄鐘調の『越天楽』、壱越調『鳥の急』に対して双調のそれなど十数曲ある。「渡物」は春夏秋冬を「雅楽の六調子」に対応させる「時の調子」の概念から日本で生まれたと考えられる。
 拍子は無拍節な拍子「序拍子(じょびょうし)」と、拍節的な拍子に分かれる。序拍子は「音取」「調子」「新楽乱声(しんがくらんじょう)」「小乱声(こらんじょう)」など当曲以外の曲に、拍節的な拍子は当曲にみられる。拍節的な拍子には早四拍子(はやよひょうし)・早八(はやや)拍子・延(のべ)四拍子・延八拍子・早只(はやただ)四拍子・早只八拍子・夜多羅(やたら)四拍子・夜多羅八拍子がある。延・早などは「小拍子(こびょうし)」とよぶ基本単位の拍数を示し、四・八拍子はそれぞれ小拍子4個または8個ごとに太鼓が打たれることを示す。鞨鼓・鉦鼓はこの太鼓の周期を目安としてそのなかで特定のリズム型を奏する。なかでも鞨鼓は合奏全体のテンポを、楽曲を通じて緩から急へ促す先導的役割を果たす。高麗楽には高麗四拍子・揚(あげ)拍子・唐拍子があるが、ほとんどは高麗四拍子である。[橋本曜子]
教習法
歌・舞・楽器の教習はそれぞれ専門の師について口伝(くでん)で行われる。たとえば篳篥を習うには篳篥の師について1曲ずつ楽曲の旋律を口伝えで歌い覚え、のち楽器演奏に入る。教習用のこの歌を「口唱歌(くちしょうが)」または「唱歌」という。楽譜は歌・舞・楽器別に分かれ、楽器譜はさらに各楽器ごとに編まれている。これらは口唱歌や種々の口伝を保つ備忘録としての性格が強く、広く一般の間で読譜し演奏するためのものではない。教習する楽器も任意ではなく、原則として篳篥・竜笛を習得した者が琵琶・箏を習い、管・絃両方の楽器に通じた者が打楽器を学ぶ。なかでも鞨鼓は全奏者のうちもっとも優れた者が担当し、全体の指導にあたる。明治以前には「三方楽所(さんぽうがくそ)」と称する京都・奈良・天王寺の楽所で特定の家の子弟にのみ教習され、たとえば天王寺方では林家が笙、東儀家が篳篥などというように家ごとに分担が決められ、一子相伝で伝えられた。現在流布している楽譜は、明治時代に三方楽所の伝承を集成した『明治選定譜』に基づいている。[橋本曜子]
歴史
雅楽の歴史は5世紀から8世紀にかけてのアジア諸地域の音楽の伝来に始まる。『日本書紀』には允恭(いんぎょう)天皇崩御のとき(460?)新羅(しらぎ)の楽人が多数参列し、612年(推古天皇20)には百済(くだら)の味摩之(みまし)が大和(やまと)桜井で伎楽(ぎがく)を教授したという記述がある。新羅・百済・高句麗(こうくり)の音楽は三韓楽と称され、683年(天武天皇12)には宮廷で奏されたという。736年(天平8)には林邑楽(りんゆうがく)が仏哲によって、そのほか年代は明らかでないが度羅楽(とらがく)・渤海楽(ぼっかいがく)も同じころ渡来したという。630年(舒明天皇2)からは遣唐使の派遣によって唐楽が伝えられ、これら諸国の音楽は仏教の荘厳(しょうごん)として積極的に摂取された。701年(大宝1)には大宝律令(たいほうりつりょう)により治部省のもとに雅楽寮が置かれ、和楽とともに三韓楽・唐楽が宮廷の楽舞として教習されることとなった。多様な外来楽は制度的に広められ、仁明(にんみょう)天皇(在位833~850)のころから約半世紀にわたってしだいに日本的なものに改変されていく。これを「平安の楽制改革」と称する。
 平安の楽制改革のおもな内容は、(1)楽曲・楽舞を唐楽・高麗楽の2分野に整理統合し、前者を左方の楽、後者を右方の楽として対比を明確にしたこと、(2)大型の笙である竿(う)・大篳篥・尺八(古代尺八)などが使用されなくなり、日本人の音感にあった楽器を取り合わせて各分野ごとにほぼ今日と同じ楽器編成が整備されたこと、(3)中国の音楽理論の影響を受け、唐楽の六調子、高麗楽の三調子が決定されたこと、である。この時期には新作も進み、唐楽では『承和楽』『長慶子(ちょうげいし)』、高麗楽では『仁和(にんな)楽』『延喜(えんぎ)楽』などが作曲された。また821年(弘仁12)「内裏(だいり)式」により宮中儀礼における雅楽の制も正式に定められ、管絃の遊びでも雅楽は盛んに演奏されて、大戸清上(おおとのきよかみ)、尾張浜主(おわりのはまぬし)らの名手を生んだ。
 10、11世紀には和漢の詩歌に管絃の伴奏をつけた催馬楽・朗詠という声楽分野も誕生した。『源氏物語』には催馬楽の記述が多く、一条(いちじょう)天皇(在位986~1011)のころ盛んであったと考えられる。宮廷では管・打楽器と舞は専業の楽人に、絃楽器と歌は西園寺(さいおんじ)家、綾小路(あやのこうじ)家らの貴族に受け持たれ、貴族のなかからは源博雅(ひろまさ)(918―980)、藤原師長(もろなが)らの名手が出現し、のちに源(げん)家と藤(とう)家の2派を生じた。
 武家政権のもとにおいても雅楽は比較的よく保存されたが、応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(1467~1477)では都市文化は破壊され、雅楽はわずかに七夕(たなばた)の行事に残るのみとなった。16世紀後期には、大社寺に専属している京都・奈良・天王寺の楽人をあわせてこれを「三方楽所(さんぽうがくそ)」と称し雅楽復興の足掛りとした。すなわち正親町(おおぎまち)・後陽成(ごようぜい)天皇の天正(てんしょう)・文禄(ぶんろく)年間(1573~1596)に、四天王寺の楽人(天王寺方)と興福寺の楽人(奈良方または南都方)は、停滞している宮廷の楽人(京都方または大内楽所)に加えられ、雅楽の振興に寄与させられたのである。江戸時代には3代将軍徳川家光(いえみつ)が三方の楽人の一部を江戸城内紅葉山(もみじやま)に集め祭祀儀礼に演奏させた。これを「紅葉山楽人(もみじやまがくにん)」という。
 王政復古の大号令によって、朝廷を中心とした新政府が成立した明治時代になると、雅楽はいったん「皇室に返上」することとなった。雅楽における秘曲・技法専有の習慣は廃止され、1870年(明治3)太政官(だじょうかん)雅楽局が開設されると、三方楽所と紅葉山の楽人はそこに召集され、自由化について合議することとなった。そして1876年と1888年の2回にわたり、神道系・大陸系・声楽曲すべての分野の歌・舞・各楽器の楽譜が集成され、72冊からなる『明治選定譜』が制定された。のち、雅楽局は雅楽課・雅楽部と改称され、現在、宮内庁式部職に属する楽部に至っている。
 明治以後、西洋音楽の導入と同時に雅楽の大衆化が進み、宮内庁雅楽が宮中儀礼に正式の楽として奏される一方、四天王寺・興福寺などの社寺では依然独自の伝統が保たれ、新しい傾向として近年は民間でも愛好者が増えて、活動する雅楽団体は全国で100を超える。また雅楽はドビュッシーをはじめとする西洋の作曲家に影響を与えてきたが、武満徹(たけみつとおる)の『秋庭歌一具』、石井真木(まき)の『遭遇』など雅楽器と現代の作曲技法を融合した新しい分野も開拓され、雅楽の可能性に期待が寄せられている。[橋本曜子]
 なお雅楽は、2009年(平成21)ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に登録された。[編集部]
『増本喜久子著『雅楽』(1968・音楽之友社) ▽東儀和太郎、ウィリアム・マーム著『日本の伝統7 雅楽』(1968・淡交社) ▽押田良久著『雅楽鑑賞』(1969・文憲堂七星社) ▽芸能史研究会編『日本の古典芸能2 雅楽』(1970・平凡社) ▽寺内直子著『雅楽を聴く――響きの庭への誘い』(岩波新書)』

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世界大百科事典内の雅楽の言及

【音楽】より

…しかし,過去の状況は別であった。明治以前の日本では,たとえば雅楽は寺社と公卿階級に属し,能楽は武家階級のもの,長唄や浄瑠璃は町民のものというように,音楽の各ジャンルは,社会的階層の中に個別的,閉鎖的に所属するという傾向が強かった。 吉川英士によれば,〈音楽〉という用語は,古く中国からもたらされたが,奈良朝ころまでは,表記するためにその文字を借りても,〈おんがく〉とは訓(よ)まず,〈うたまひ〉〈もののね〉などといった。…

【楽】より

…やがて今日の音楽に近い意味で用いられた。日本では,外来の音楽,あるいは雅楽の意味で用いられた。能・狂言の囃子事や歌舞伎の下座(げざ)音楽で用いられる場合は,下記のように唐楽を模した音楽を意味する。…

【芸能】より

…またこの時代,允恭天皇の大葬に新羅(しらぎ)王が楽人(うたまいびと)80人を献ったとの《日本書紀》の伝えのあるのをはじめ,612年(推古20)には百済(くだら)人によって中国の伎楽がもたらされ,さらに中国の舞楽や散楽が次々に伝来して宮廷および周辺の寺院などの歌舞は一挙に華麗なものとなった。701年(大宝1)には雅楽寮の制が成り,外来楽を基盤としての楽人,舞人の養成が国家的規模で行われ,平安時代には管絃,舞楽(雅楽)が宮廷や大寺の儀式に欠かせぬものとなった。 また,散楽は曲芸,幻術,物真似などを含み宮廷の饗宴の余興にも演じられたが,また民間にも流布して,猿楽(さるがく)とよぶ芸能を生んだ。…

【狛氏】より

…旧三方楽人の一つで奈良南都方の主流。興福寺に属した宿禰(すくね)姓の雅楽家。祖先は高句麗からの渡来人。…

【箏】より

…単に箏と称するもののほかに,同類の楽器として,中国の瑟(しつ),朝鮮の伽倻琴(かやきん),大箏(たいそう),牙箏(がそう),日本の和琴(わごん),モンゴルのシトク(ヤトク,ヤタグともいう),ベトナムのダン・チャンなどがあり,撥弦楽器が主流であるが,牙箏のように擦奏するものもある。
[中国]
 中国の箏は雅楽用でなくもっぱら俗楽に用いられてきた。箏は,戦国時代(前403‐前221)に秦の将軍蒙恬(もうてん)が作ったという説があるが信ずるに足りない。…

【日本音楽】より

…このうち,民俗音楽は広義の〈邦楽〉に入れることもあるが,唱歌,軍歌,歌謡曲などは〈邦楽〉には入れないのが普通であるだけではなく,後述のように洋楽に扱うこともある。〈邦楽〉はさらに狭義に使われることもあって,雅楽,声明(しようみよう)(仏教声楽),平曲,能楽,および浪曲などは含まれないこともある。つまり,最狭義の〈邦楽〉には,三味線,箏(そう),尺八などを使う近世の邦楽(〈近世邦楽〉としばしばいわれる)だけが含まれるという考え方が行われている。…

【博士】より

…旋律の動きを視覚的にわかりやすく示そうとしたもので,詞章の右または左に書かれる。この呼称は主として声明(しようみよう)で用いられるほか,雅楽の歌物の楽譜も博士と称することが多い。譜士と書くこともあり,節博士(ふしはかせ),墨譜(ぼくふ),節譜(せつぷ)などともいう。…

【篳篥∥觱篥】より

…奈良時代には唐楽専用の楽器として用いられたが,旋律を自由に吹けることから,平安時代には高麗楽(こまがく)や,宮中の神事用の音楽にも使用されるようになった。現在では重要な旋律楽器として,雅楽のあらゆる種目に用いられる。日本の篳篥は竹管を用い,尺八とは逆に竹の本(もと)(根に近いほう)を首(上)に,末(根と反対のほう)を尾(下)に作る(図)。…

【琵琶】より

…一方,北部ではむしろ独奏楽器として発達し,純器楽的表現のみならず,自然現象を模倣する写実技法を織り交ぜながらフラメンコ風の華麗な技巧をこらした指爪弾法を応用するようになった。
[日本]
 日本の琵琶楽の歴史を通じ際立った事実として,大陸から輸入された楽器と音楽を本質的に変化させることなく保存し続ける雅楽の伝統とならんで,宗教・娯楽・武士道・芸術表現のために琵琶をつくりかえ新しい音楽様式を次々と確立してきた傾向をあげることができる。また,日本では4弦の曲頸琵琶が諸ジャンルにまたがって主流となってはいるものの,(じ)のはたらき(表)や持続・反復低音の利用のしかたなどに直頸琵琶の痕跡が残されていると解釈することもできる。…

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