土崎湊永覚町(読み)つちざきみなとえいかくまち

日本歴史地名大系 「土崎湊永覚町」の解説

土崎湊永覚町
つちざきみなとえいかくまち

[現在地名]秋田市土崎港中央つちざきみなとちゆうおう一丁目・同西にし二丁目の各一部

南側は下酒田しもさかた町に連なる。西側は川反かわばた通の八軒はちけん町で、それから「湊町御田地」に出る小路に「荷調御番所」があり、沖口出入荷の脱洩を吟味していた。東側裏には永覚町の鎮守稲荷社があり、万治二年(一六五九)創立と伝える。

町名は永覚坊とよぶ修験者にちなむと伝えるが、明確でない。安政年間(一八五四―六〇)東講商人鑑(土崎港町史)には廻船問屋二軒、小宿三軒、附船一軒とある。安永二年(一七七三)藩の廻米が不足し、土崎湊問屋・小宿に差出米を割り当てた時、永覚町居住の問屋間杉五郎八は五〇〇石の代銀を差し上げ、また湊町問屋・小宿一九人の差上米一千七〇七石のうち永覚町居住問屋川口長右衛門・小宿根布屋与右衛門はほか四人とともに合計二〇〇石を差し上げるなど豪商が居住し、湊町の中核をなしていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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